“悪人説”を唱えた山形市史
いったいなぜ、そこまで悪人として描かれてしまったのか。その手がかりは、意外にも地元・山形市がまとめた『山形市史』にある。
山形大学名誉教授の松尾剛次は、脚本家のジェームス三木が「ネタ本は『山形市史』で、それに義光が残忍で狡猾な人物と書いてある」と話していたことを紹介している(「山形新聞」2022年5月11日付朝刊)。では、市史にはどのように書かれていたのか。
義光の強引にして不遜な態度には義守も怒り、父子の対立が再燃した(山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 編『山形市史 中巻(近世編)』山形市、1971年)。
不遜な態度とは書いてあるのだが、前後にどういう史料に基づいて「不遜な態度」だったと実証されるのかは、なにも説明がない。この市史には、そんな記述が次々と続く。
以上、おもに村山郡内川東地域の平定をみてきたが、いずれも根本史料を欠き判然としない。ただ義光は武勇のみならず、謀略にも長じていたことがわかる。一族を滅ぼすのに、その家子・郎等(ママ)を懐柔して利用することが多かった。主家を裏切って帰参した武士には、滅亡した旧主の領地を温床として給することもあり、降参した豪族にも、所領を安堵することが多かった(同上)。
「判然としない」のに義光を断罪
冒頭に「根本史料を欠き判然としない」と自ら書いているのに勝手に「謀略にも長じていた」と価値判断を記入している。そもそも、懐柔や裏切り者への恩賞も別に、どこの戦国大名もやっていることで義光だけが悪事を働いているわけでもない。
さらに、領国を安定する過程で弟である義時を粛清した部分の記述では「残忍な態度で、一族等の根絶やしにかかった」と書いてある。そして、ほかの戦国大名との戦いにおいても「義光の強力な宿敵は天童氏であった」という書き方である。「強力な宿敵」という表現自体はニュートラルに見えるが、文脈的に読者に悪の義光が天童氏を攻めたという印象操作になっている。
面白歴史読み物ならともかく、これは自治体の公的な歴史である。しかも当時のことだからちゃんと予算を使って、地元山形大学を始めとした研究者、学芸員によって執筆されている。そんな人々が、歴史の基本を忘れて感情を盛り込んでしまっているのだから、読んだ人は「えらい先生方が書いてるので、義光が悪人なのは間違いないだろう」と思うのは当然だ。

