英語より栃木弁のほうが得意だった
東京への転勤はあきらめて、北関東でもっと頑張ろうと考えていた98年、突然、東京本社に転勤が決まりました。東京で小売業のお客様を担当するものと思っていたら、半年後にはアジア全体の小売業を担当する米国IBM本社のアジア・パシフィック・サービス・コーポレーション(APSC)に赴任しました。
カバー範囲は日本、韓国、中国、台湾、香港、ASEAN、オーストラリア、ニュージーランドなどの17カ国。部内公用語はもちろん英語でした。学生時代も含めて英語を話す機会はほとんどなく、むしろ北関東事業部で身につけた栃木弁や群馬弁のほうが得意なくらい。「英語が話せないから無理です」とはじめは断りましたが、上司から「問題ないからやってみろ」と激励されました。
ニューヨークでの会議では、ビジネス英語が理解できないこともあり、「わからないからもう一度説明してくれ」と言えるまでが大変でした。しかし、私が頑張って交渉しないと、各現地法人の担当者に迷惑をかけるのですから、黙っているわけにはいかず、「もう一度説明して」と言えるようになりました。
このAPSCで2年を過ごし、日本IBMのゼネラルビジネス事業部のマーケティング部門に配属になって部長に昇進しました。部下は、関連チームのメンバーも合わせると30人以上。充実度は満点でしたが多忙度も満点でした。ちょうど昇進と時を同じくして父が入院することになり、初めての管理職としてもがく一方で、毎日病院に通うという生活でした。
管理職として一番悩まされたのは人事評価です。リーダーとしてビジネス目標を達成するだけで精一杯。しかし私が部下を正しく評価し、社内的に認めてもらわなくては、部下の昇進昇格に関わります。部下の力量を社内で認めてもらうための場を設けるなど、先手を打った対応が必要でした。管理職としてまだ駆け出しの私には、そうした経験が不足していました。それは誰かが教えてくれるというものではありません。様々な経験を経ることで、徐々に鍛えられていったように思います。
伊田欣司=構成 向井 渉=撮影