入社以来の衝撃

日本アイ・ビー・エム 執行役員 荒川朋美さん。インサイドセールス事業担当。

日本IBMに入社して以来、最も衝撃的だった出来事といえば、当時所属していたPC事業とともに事業売却先のレノボ・ジャパンに移籍したことです。当時はその事業部のブランドとマーケティングの責任者でしたが、私を含めた国内PC部門の約400人が日本IBMをいったん退社し、売却先企業に入社するかたちをとりました。

正式発表の1カ月前に上司から説明を受けたときはまさに青天の霹靂。入社してちょうど20年が経っており、それまで育ててもらった日本IBMには感謝していたので、この退社は「卒業」だと受け止めました。全世界で実施された事業移管でしたが、各国での進め方は異なっており、日本では、会社分割法に基づく転籍となりました。

転籍といっても、会社をゼロから自分たちで設立するのです。銀行で新しく口座を開設しようにも、会社名がまだ決まっていないなど、ハプニングの連続でした。

私は新会社では執行役員となり、製品・マーケティングを引き続き担当することになりました。PC部門の事業売却が公表されると、メディアで誤った情報が数多く流れ、ブランド戦略の責任者としてその対応に追われました。

例えば「本社がニューヨークにあるグローバル企業」といくら説明しても、「中国に本社がある」と誤って報じられるのです。正しい情報を提供するため、お客様やパートナー企業にご説明にまわり、新聞広告を何度も打ちました。そういう地道な努力の積み重ねで、少しずつ新会社のブランドを市場で正しく認知していただくことができるようになりました。

“女性担当者”に納得しない顧客も

新会社の設立にあたっては、過去に経験したことがない予想外の状況が次々と押し寄せてきました。それでも何とか前向きに対応できたのは、日本IBMで最初に配属された北関東営業部での11年間があったおかげだと思います。仕事人生の土台を築いた時期だといって過言ではありません。

慶應義塾大学・商学部を卒業し、システムエンジニア(SE)として入社したのは1985年です。グローバル企業で働くことに憧れていたのに、最初に配属されたのは埼玉県。絶対に行きたくないと思って、「千葉の自宅から遠くて通えない」と抵抗したほどです。

北関東営業部は埼玉、群馬、栃木が主な担当エリアで、長野や新潟の一部もカバーした時期もありました。少人数の営業部ですから、1人で一通りのことは、こなせないといけません。業務のコンサルティングなど専門領域を超えた仕事も任され、それが経験の幅を広げてくれました。お客様は百貨店、スーパー、専門店などの小売業が中心で、店舗を見てまわって経営者の方とお話するのが楽しくてしかたありませんでした。

85年は男女雇用機会均等法が改正された年で、入社直後は女性はまだ22時以降の残業が法律で禁止されていました。社内で男女の違いを意識したことはありませんが、大型システムの競合で私が主担当だと知って、ご納得いただけないお客様もいました。後で知ったのですが、プロジェクトが数年に渡るため、その間にプロジェクトリーダーが結婚退職し、変更することになっても困るという事が理由でした。その時の上司はそれでも私を主担当に推してくれ、「システムのプロとして荒川に担当させていますので、彼女以上の担当はいないと確信しています。したがって変更はいたしません」とお客様に申し入れていただいていたことも後で知りました。11年間のうちはじめの7年はSEを務め、それから営業職になりました。

英語より栃木弁のほうが得意だった

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荒川さんのキャリア年表

東京への転勤はあきらめて、北関東でもっと頑張ろうと考えていた98年、突然、東京本社に転勤が決まりました。東京で小売業のお客様を担当するものと思っていたら、半年後にはアジア全体の小売業を担当する米国IBM本社のアジア・パシフィック・サービス・コーポレーション(APSC)に赴任しました。

カバー範囲は日本、韓国、中国、台湾、香港、ASEAN、オーストラリア、ニュージーランドなどの17カ国。部内公用語はもちろん英語でした。学生時代も含めて英語を話す機会はほとんどなく、むしろ北関東事業部で身につけた栃木弁や群馬弁のほうが得意なくらい。「英語が話せないから無理です」とはじめは断りましたが、上司から「問題ないからやってみろ」と激励されました。

ニューヨークでの会議では、ビジネス英語が理解できないこともあり、「わからないからもう一度説明してくれ」と言えるまでが大変でした。しかし、私が頑張って交渉しないと、各現地法人の担当者に迷惑をかけるのですから、黙っているわけにはいかず、「もう一度説明して」と言えるようになりました。

このAPSCで2年を過ごし、日本IBMのゼネラルビジネス事業部のマーケティング部門に配属になって部長に昇進しました。部下は、関連チームのメンバーも合わせると30人以上。充実度は満点でしたが多忙度も満点でした。ちょうど昇進と時を同じくして父が入院することになり、初めての管理職としてもがく一方で、毎日病院に通うという生活でした。

管理職として一番悩まされたのは人事評価です。リーダーとしてビジネス目標を達成するだけで精一杯。しかし私が部下を正しく評価し、社内的に認めてもらわなくては、部下の昇進昇格に関わります。部下の力量を社内で認めてもらうための場を設けるなど、先手を打った対応が必要でした。管理職としてまだ駆け出しの私には、そうした経験が不足していました。それは誰かが教えてくれるというものではありません。様々な経験を経ることで、徐々に鍛えられていったように思います。