「国家を信用した中国人は一人もいない」

午前9時の営業会議は、北京・上海・台北・香港・シンガポール・東京を結んで行なわれた。いまではアジアの次世代リーダーの一人と目されているCEOのジミー・チャンが、自家用ジェットに搭載した衛星回線で手短に事業計画を述べた。

「5000年の歴史のなかで、国家を信用した中国人など一人もいない」

CEOは皮肉な口調でいった。「人類にとって重要なのは、国ではなく市場だ。国家としての中国が解体していくのなら、それはわが社にとって最大の商機だ」。

中国の富裕層のキャピタルフライトが本格化するまでに、できるだけ多く都心部の優良物件を確保することが、私たち「東京チーム」の任務なのだ。

ジミーの話が終わると、地区別に分けられたチームでミーティングを行なった。私たちの担当は新宿で、プロジェクトマネージャーは30歳になったばかりの香港人女性アイリスだ。

いまではすべての不動産情報がデータ化され、AIが立地や築年数、テナントの状況などから適正な物件価格を算出し、それにもとづいて事業計画までつくっている。

だがそれでも私の仕事があるのは、AIでは地権者の家族関係や物件に対する思い入れなど、人間の非合理的な行動までは読み切れないからだ。これが、人間にわずかに残されたアドバンテージというわけだ。

メール1本で解雇

ほとんどの売り手はAIを使って物件価格を最大化しようとし、交渉術まで指南されている。そのため人間同士のやりとりは、AIの振付による人形劇のようなものになっている。私の裁量で決められるのは、最初の挨拶の言葉くらいだ。

それでも交渉を成立させるには、当事者が顔を合わせ、握手をし、契約書に判を捺さなくてはならないのだから、慣習というのは不思議なものだ。

アイリスは部下たちのアポイントと進捗状況を確認したあと、田沢という30代後半の男に残るよう伝えた。3カ月続けてノルマを達成できておらず、今月もあと10日しかないので、いつもの手続きが始まったのだ。書類にサインし、わずかな私物を整理すると、あとは奇跡でも起きないかぎりメール1本で解雇される。

田沢の机の上には、まだ若い妻と5歳になる女の子の写真が飾られていた。私も先月はノルマをクリアできなかったので、尻に火がついているのは同じだ。