※本稿は、原丈人『THE BEST WORK 「最高の仕事」を生きる』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
孫正義の「少し」では終わらない営業トーク
バタバタ、バタバタ、バタバタバタバタ――。
飛行機が飛び立つたび、便名と行き先、離陸時間を表示していた掲示板がバタバタと回転しては消え、次の表示に変わる。反転フラップ式案内表示機の作動音の聞こえる出発ロビー。今ではデジタル式のモニターが主流となり、ほとんど見かけることがなくなったバタバタ表示機。どこに行っても私を待ち構えている男がいた。
サンフランシスコ国際空港、ロサンゼルス国際空港、バーバンク・グレンデール・パサデナ空港、成田国際空港……。
どうやって調べているのかわからないが、「彼」は世界中を飛び回っていた私の居場所をつかんで滞在先にやってきた。
「原さん、少し時間をもらえますか」
いつもそうやって声をかけ、やや強引に、しかしユーモアのある、「少し」では終わらない営業トークを始める彼は、1981年にコンピュータソフトの卸会社、日本ソフトバンクを設立した孫正義さんだ。
「日本での総代理店をやらせてほしい」
ちょうど彼が社名をソフトバンクに変更した1990年当時、私はアメリカのソフトウェア会社ボーランドの会長を務めていた。当時、米国のアプリケーションソフトウェア(表計算、ワープロ、データベース等)は、大手四社で寡占されていた。マイクロソフト、ボーランド、ロータス、ワードパーフェクトの4社だ。
なかでもボーランド社は破竹の勢いでマイクロソフトを追撃しており、当時のウォールストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズでも大きく報じられていた。1990年代後半にはマイクロソフトから主導権が移ると思っていた人も多かったのだ。
孫さんはビル・ゲイツとつながりがあり、ソフトバンクはマイクロソフト社製のソフトウェアを扱う日本での代理店になっていた。
ボーランドとマイクロソフトは完全なライバル企業。しかも、その後、ボーランドはソフトウェア開発ツールの開発者チームの集団引き抜きを巡り、マイクロソフトとの法廷闘争に入っていくことになる。
そんなきな臭い事情はもちろん承知の上で、孫さんはボーランド社の日本での総代理店をやらせてほしいと交渉してきた。
私は、個人データベースの市場、表計算ソフト分野での最大のライバルであるマイクロソフトとつながっている相手に販売代理店を任せることはできない。そう言って断っていたのだが、まったくあきらめる気配はなく、あるとき、日本に帰国するとまたしても孫さんが待っていたのだ。