仕事を成功させる人はどのような人なのか。ベンチャーキャピタリストの原丈人さんは「30年以上も前のことだが、孫正義からミーティングを持ちかけられ、12時間にも及ぶミーティングをしたことがある。断られても決して諦めない、彼の徹底的にやる姿勢に、『この人はビジネスで大きな成功を手にする人物だ』という印象を持った」という――。

※本稿は、原丈人『THE BEST WORK 「最高の仕事」を生きる』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。

孫正義の「少し」では終わらない営業トーク

バタバタ、バタバタ、バタバタバタバタ――。

飛行機が飛び立つたび、便名と行き先、離陸時間を表示していた掲示板がバタバタと回転しては消え、次の表示に変わる。反転フラップ式案内表示機の作動音の聞こえる出発ロビー。今ではデジタル式のモニターが主流となり、ほとんど見かけることがなくなったバタバタ表示機。どこに行っても私を待ち構えている男がいた。

サンフランシスコ国際空港、ロサンゼルス国際空港、バーバンク・グレンデール・パサデナ空港、成田国際空港……。

どうやって調べているのかわからないが、「彼」は世界中を飛び回っていた私の居場所をつかんで滞在先にやってきた。

「原さん、少し時間をもらえますか」

いつもそうやって声をかけ、やや強引に、しかしユーモアのある、「少し」では終わらない営業トークを始める彼は、1981年にコンピュータソフトの卸会社、日本ソフトバンクを設立した孫正義さんだ。

空港ターミナルからの景色
写真=iStock.com/indukas
※写真はイメージです

「日本での総代理店をやらせてほしい」

ちょうど彼が社名をソフトバンクに変更した1990年当時、私はアメリカのソフトウェア会社ボーランドの会長を務めていた。当時、米国のアプリケーションソフトウェア(表計算、ワープロ、データベース等)は、大手四社で寡占されていた。マイクロソフト、ボーランド、ロータス、ワードパーフェクトの4社だ。

なかでもボーランド社は破竹の勢いでマイクロソフトを追撃しており、当時のウォールストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズでも大きく報じられていた。1990年代後半にはマイクロソフトから主導権が移ると思っていた人も多かったのだ。

孫さんはビル・ゲイツとつながりがあり、ソフトバンクはマイクロソフト社製のソフトウェアを扱う日本での代理店になっていた。

ボーランドとマイクロソフトは完全なライバル企業。しかも、その後、ボーランドはソフトウェア開発ツールの開発者チームの集団引き抜きを巡り、マイクロソフトとの法廷闘争に入っていくことになる。

そんなきな臭い事情はもちろん承知の上で、孫さんはボーランド社の日本での総代理店をやらせてほしいと交渉してきた。

私は、個人データベースの市場、表計算ソフト分野での最大のライバルであるマイクロソフトとつながっている相手に販売代理店を任せることはできない。そう言って断っていたのだが、まったくあきらめる気配はなく、あるとき、日本に帰国するとまたしても孫さんが待っていたのだ。

孫正義と12時間のミーティング

「今日も、少し話しませんか」

そのままエアポートバスで東京ターミナルに移動し、すぐ側のロイヤルパークホテルの個室に案内された。

18時に交渉が始まり、ルームサービスで夕食を頼む。それでも通常なら21時くらいには終わるものだ。なにせ、こちらは総代理店契約を結ぶ意思がないのだから。

ところが、彼は深夜の1時になっても、2時になってもあきらめない。

「いずれ、私たちはマイクロソフトを超える会社になります」

隠すことなく野心を語り、粘り強く交渉を続けるあきらめない姿勢には驚かされた。だが、いくら儲かる可能性が高くてもボーランドが敵視しているライバル企業とつながるような契約を交わすことはできない。

結局、朝の6時まで話し合いをし、合意はなかったものの最後は笑顔で別れた。やると決めたら、徹底的にやる。この人はビジネスで大きな成功を手にする人物だ、という印象が強く残ったのを覚えている。

徹底的にやる。納得するまでやる

徹底的にやる。

納得するまでやる。

本当に集中して取り組む対象と出会えた人は幸運だ。

私にとってはそれが「考古学」であり「ベンチャーキャピタル」だった。なぜ幸運かと言うと、私たちは集中して何かに心底打ち込んでいるとき、人として大きく成長できるからだ。

「努力は好きに勝てない」とはよく言ったものだ。

あなたにも、そんなふうに自分の成長を実感した経験があると思う。

ソフトバンクがパ・リーグ連覇を果たし、声援に応える孫正義オーナー=2025年9月27日、埼玉・ベルーナドーム
写真=時事通信フォト
ソフトバンクがパ・リーグ連覇を果たし、声援に応える孫正義オーナー=2025年9月27日、埼玉・ベルーナドーム

鉄道模型作りに自分のすべてを捧げた父

私の父・原信太郎は、まさにそのお手本のような人だった。

本当に鉄道一本。鉄道模型づくりに自分の魂と時間、持っている頭脳と技術力を捧げていた。

その分、他のことには無関心。私や弟妹の行動にはまったく興味がない。愛情がないのではなくて、目を向ける時間がなかったのだ。私が何年生かも把握していないし、学校の成績表は一切見ない。友達のことも一切聞かない。いつも鉄道模型づくりに夢中だった。

私は、父が鉄道模型をつくっているところ以外の姿をあまり見たことがない。私が高校、大学受験のために夜中の2時、3時まで勉強していたときも父のほうがもっと遅い時間まで模型づくりをやっていたくらいだ。朝は朝で、こちらが通学のために早く起きて支度を始めると、作業部屋からはもう工作の音が聞こえてくる。いったいいつ寝ていたのだろうか。

父は幼いころから鉄道に関することはすべてを学び、吸収したいと考えていたようだ。たとえ、それが外国語で書かれている場合でも。その結果、英語はもちろんのこと、旧制中学と旧制高校でドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ロシア語を独学で身につけていった。

すべては海外の鉄道について知るためだった。家にはいろんな国から、いろんな言語の鉄道や模型の雑誌が届いていた。

好きなことを徹底的にやる

私は、鉄道模型に対する父の姿から「好きなことを徹底的にやること」の大切さを学んだ。

特にものづくりに対する絶対的なこだわりは、父から学んだものだ。

父は同じ機関車をつくっても、次は必ずそれ以上のものを目指そうとしていた。つねに改良を重ね、より完璧な作品を生み出そうと懸命に取り組む。自分自身に挑戦を続ける姿に、子どもながら強く惹かれたのを覚えている。

原丈人『THE BEST WORK 「最高の仕事」を生きる』(サンマーク出版)
原丈人『THE BEST WORK 「最高の仕事」を生きる』(サンマーク出版)

95歳で亡くなるまで、1500台を自作し、約4000台を収集した父の鉄道模型は2012年7月、横浜に開設した「原鉄道模型博物館」に展示されている。この鉄道模型を見て、「同じ投資をするなら、機関車ではなく絵を集めてくれたほうが将来の値上がりが期待できてよかったでしょう」と言う人もいる。鉄道模型に興味のない人からすると、財産的に無価値なおもちゃに見えるのだろう。

だが、それは違う。

父は美術品の値上がりを“価値”とは考えていなかった。好きを貫き、こだわり抜いた本物にしか宿らない価値がある。私は鉄道模型に対する父の姿から「好きなことを徹底的にやること」の大切さを学んできた。