不貞を犯した女中をノコギリ轢きに
さらに衝撃的な記録が、『時慶記』文禄2年11月4日条に見える。そこには、秀吉に召し抱えられていた一人の女房が、暇(奉公を辞めること)を正式に願い出ないまま、男と結婚したことが記されている。その処分内容は、読む者を震撼させるほど苛烈であった。
三条橋で生まれた子は殺害され(史料には煮殺したと記されている)、女房とその男は土に首だけを出して埋められ、鋸引きの刑に処されたというのである。秀吉の命によって、一組の男女が極めて残酷な刑罰を受けた事実が、ここから明確に読み取れる。
これらの史料を通じて浮かび上がるのは、秀吉の怒りがいかに激しく、また容赦のないものであったかという点である。驚くほど苛烈な処罰は、男女関係の乱れを厳しく禁じるため、見せしめとして行われた可能性が高い。
規律を徹底するための処罰と解釈することは可能だが、なぜここまで苛烈な対応に及んだのか、その真意は判然としない。女房が秀吉の許可を得ず、無断で結婚したこと自体が、天下人の逆鱗に触れたのだろうか。
キリスト教に向けられた秀吉の強硬姿勢
豊臣秀吉は、国内統治を進める中でキリスト教勢力に対しても強い警戒心を抱くようになった。天正15年(1587)、秀吉はキリスト教の布教を禁じるため、いわゆる伴天連追放令を発布している。しかし、この段階では宣教師の即時処刑にまで踏み込むものではなかった。
その姿勢が大きく転換する契機となったのが、慶長元年(1596)10月に起こった「サン・フェリペ号事件」である。この事件は同年、スペイン船サン・フェリペ号がメキシコへ向かう途中、嵐に遭遇し、土佐国の浦戸に漂着したことに始まる。船は嵐のため難破し、積んでいた船荷が船外に流出する事態となった。
秀吉はこの報告を受け、増田長盛を長宗我部元親のもとに派遣し、サン・フェリペ号の乗組員を拘留するとともに、積荷を没収するよう命じた。もともと秀吉は、乗組員の身の安全を保証するとスペイン側に伝えていたが、実際に取られた措置はそれとは正反対のものであった。このため、スペイン側は激しく抗議することとなる。
抗議の過程で、スペイン側は自国の領土がいかに広大であるかを強調し、反対に日本が小国であることを述べたうえで、まず宣教師を派遣し、その後に軍事力によって侵略を進める、という趣旨の発言を行ったとされる。
この発言は、秀吉にとっては脅迫めいたものと受け取られた。天下統一を成し遂げた秀吉が激怒したのは、言うまでもない。その後、秀吉は石田三成に命じ、京都にいたフランシスコ会員とキリスト教徒を一斉に捕縛させるという、強硬な措置に踏み切った。
両脇を槍で刺されたキリシタン
捕らえられた人々に対して、秀吉は耳や鼻を削ぐ刑を命じたと伝えられている。京都で捕縛されたキリシタンたちは、一条戻橋において左右の耳や鼻を削がれたという(『義演准后日記』など)。その後、彼らは雑車(雑用に使う車)に乗せられ、罪人同然の扱いで京都市中を引き回された。これは単なる処罰ではなく、明確な見せしめであった。
それから約1カ月をかけて、捕らえられた宣教師や信徒たちは西国へ移送され、同年12月、長崎においてキリシタン26人が処刑されるに至る。いわゆる「二六聖人殉教事件」である。彼らは長崎へ送られる際、大坂から徒歩で移動させられたとされている。処刑当日、混乱を避けるため長崎では外出禁止令が出されたが、それにもかかわらず、4000人を超える人々が処刑場である西坂の丘に集まったという。
死を目前にしたパウロ三木は、集まった群衆に向かって自らの信仰の正しさを語ったと伝えられている。そして、多くの人々が見守る中、キリシタンたちは両脇を槍で突かれ、命を落としたのである。
宣教師や信徒を単に処刑するだけでは、十分な抑止効果は得られない。秀吉が耳や鼻を削ぐ刑といった苛烈な処罰をあえて行ったのは、キリスト教勢力に対する断固たる姿勢を国内外に示すためだったと考えられる。
この一連の出来事は、秀吉がキリスト教を単なる宗教問題ではなく、国家秩序や安全を脅かしかねない存在として捉えていたことを物語っている。
秀吉の統治は寛容さだけでなく、恐怖と強制力によっても支えられていた。恐怖政治の側面も併せ持っていたのである。一連の出来事は、それらを如実に示す象徴的な事件だったと言えるだろう。

