名前こそ書かれていないが、このとき釜茹での刑にされたのが、石川五右衛門だった。その事実を裏付けるかのように、スペインの商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも詳しく書かれている。次に、その内容を示すことにしよう。
落書きに怒り油茹での刑に
京都に盗賊が集まり、巾着切り(スリ)をするため、多くの人を殺害した。それゆえ、京都、伏見、大坂、堺などでは、朝になると死体がゴロゴロとしていた。盗賊のうち何人かを捕縛し拷問したところ、15人の頭目がいることが明らかになった。頭目一人につき、30~40人の手下がいた。15人の頭目は、生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、きょうだいに加え、五等親までが連座して磔刑に処された。盗賊らも、一族もろとも同じ刑に処されたのである。
『日本王国記』の注記によると、油で煮られたのは、石川五右衛門と9~10人の家族だったという。当時、京都などの主要都市では、盗賊が活発に活動しており、秀吉は頭を抱えていた。ゆえに、釜茹でという厳罰に処して、見せしめにしたのである。
天下人となった秀吉は、自身や政権を嘲笑されることを決して許さなかった。落書きという匿名の批判に対しても、徹底的に犯人を追及し、過酷な処罰を加えたのは、人々に強烈な恐怖と服従を植え付けるためだったと考えられる。この事件は、秀吉の統治が単なる人心掌握だけではなく、恐怖政治の側面も併せ持っていたことを如実に物語っている。
女中にも容赦しなかった
秀吉が厳罰を科したのは、盗賊や反逆者といった政権に直接刃向かう存在だけではなかった。史料を読み解くと、身の回りで仕える女中や女房衆に対しても、きわめて容赦のない処分を下していたことがわかる。
その実態を伝える史料の一つが、『時慶記』である。文禄2年(1593)10月20日条には、読者の関心を強く引く記述が残されている。そこには、大坂城において、淀殿の女房衆が主の留守中に「とんでもないこと」をしでかしたと秀吉が耳にし、近いうちに処分が行われるだろう、という趣旨の内容が記されている。ただし、残念ながら女房衆が具体的に何をしたのかは明示されていない。原文には「曲事(けしからんこと)」とだけ書かれており、詳細は不明なままである。
この曖昧な表現を補う史料として注目されるのが、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』である。同書には、秀吉の宮殿内において女房衆の「不行跡」が多く見られ、その結果、多数の男女や僧侶が処刑されたと記されている。
火刑(火炙り)や斬刑(斬首)に処された者は30名を超えたというから、その規模は尋常ではない。単なる内部規律違反として片付けられるものではなく、異例の大量処刑であったことは間違いないだろう。一方で、秀吉は北政所の侍女であったマグダレナがキリシタンであり、かつ品行方正であることを理解していたため、この事件には関与していないと考えられる。
これら複数の史料を総合的に考えると、「曲事」や「不行跡」とは、男女間の乱れた性的関係を意味していた可能性が高いと見るのが自然であろう。

