資本関係がない業販店という仕組み

やまびこ5号が仙台駅に到着すると、鈴木修は当時の新型車「エリオ」の“助手席”に乗り、仙台市の郊外にある「仙台ロイヤルパークホテル」に向かう。同ホテルでは11時から「東北・北海道地区営業幹部研修会」と懇親会(出席者は225人)、夕刻からは地域の「販売店大会」と、やはり懇親会(同じく約300人)が行われる。

最初の研修会は、セールスや業販店の開拓を行うディーラーの営業マンが対象。スズキ資本のディーラーが大半だ。これに対し、販売店大会は業販店が対象。業販店とは、スズキオートのような各地域に点在する自動車整備業者や販売業者を指す。スズキとの資本関係はない。

スズキは1973年から2000年まで28年間、軽自動車市場でトップを走る「軽の王者」だったが、実は首位の座を支えていたのは業販店の存在である(ちなみに、暦年では2006年まで、軽トップを維持する)。

スズキは業販店への販売依存度が、当時は8割と高かったからだ。2001年時点で、スズキ車を扱う業販店は約4万店あって、このうち3000店強が「副代理店」と呼ばれる販売実績があり核となる業販店だった。

もともとは修理業者やバイク、自転車の販売店を、スズキ車も販売する業販店にしていった。この販売店網を作ったのは鈴木修である。

ちなみに、「現在は、直販比率が増えて業販店比率は約6割」(スズキ広報部)となっている。それでも現在スズキ車を扱う業販店は約4万3000店あり、副代理店は約3700店と実は増えている。業販比率が減ったのに副代理店が増えたのは、スズキが政策的に増やしたためだ。売れる店、すなわち副代理店に業販の販売は集中している、といえよう。

スズキと資本関係がないだけに、業販店は儲けるためにダイハツ車やホンダ車を併売するケースはいまも多い。

「私の旧姓は“マツダ”」

販売店大会が始まると、鈴木修は壇上に登った。マイクを右側に少しだけずらして「えー」と、始める。最初は小さな声で、ゆっくりとしたリズムだ。

“つかみ”としては、冒頭に「私の旧姓は“マツダ”」と話して、軽い笑いを取る。さらに、「私の年齢は8掛けで見ていただきたい。だからいま私は、57歳の働き盛り。一昔前といまとでは、同じ71歳でもまったく違うのです」と戯けて話す。なお、「8掛け」は、数年後には「7掛け」と話すようになり、実年齢と乖離していく。

鈴木修は中央大学法学部を卒業後、銀行員を経てスズキ(当時は鈴木自動車工業)に入社したのは1958年。直前に第二代社長、鈴木俊三の娘婿となり鈴木姓となった。

笑いを取り会場を和ませた後、訴えたいテーマに入ると語気を強くする。研修会と販売店大会のスピーチ内容で共通していたのは、翌2002年から始まる日産への軽自動車OEM(相手先ブランドによる生産)供給の話題だった。