元特攻隊だったカリスマ

鈴木修は、この日も長い旅の途中にいた。

仙台出張を終えると、工場進出しているハンガリーに赴く。ゴールデンウイーク後は、決算発表を行い、それが済むとデトロイトのゼネラル・モーターズ(GM)に飛ぶ。大株主だったGMに前期の経営説明をするのが目的だ。

「社長室にはほとんどいない。いつも現場を回っているから」

こう話す鈴木修を、ここで少しだけ紹介する。1930(昭和5)年1月30日、岐阜県益田郡下呂町(現在は下呂市)に生まれる。

「飛騨の山奥で生まれて育った」「だから、インドでもどこでも、何を食ったって腹を壊さない」と言う。農家の四男坊であり、旧姓は松田。子供の頃は腕白のガキ大将だったそうだ。

鈴木修の生まれた岐阜県下呂市に建てられた松田家の石碑を取材する著者。
撮影=プレジデントオンライン編集部
鈴木修の生まれた岐阜県下呂市に建てられた松田家の石碑を取材する著者。

地元の旧制中学に入学したときには、すでに戦争が始まっていた。当時の男子中学生がそうであったように、修少年も救国の念に燃えていて、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願。文武両道に通じていた修少年は、1945年5月、最上位である甲種の予科練習生になる。

つまり、海軍特別攻撃隊(特攻隊)への道を拓き、一度は自分の命を国防に捧げる道を選ぶ。入隊したのは奈良海軍航空隊宝塚分遣隊。有名な宝塚歌劇団の施設が、そのまま使われていた。

「(仲間たちは)みんな、犬死にだった」

あるとき、淡路島にある要塞の補強工事の密命が下る。明石海峡には敵の機雷が敷設されていたため、迂回して鳴門から淡路島の阿那賀港へ木造船で渡る算段となる。

修少年は無事に上陸できた。が、仲間が乗船したもう一艘の木造船・住吉丸は、突然飛来した米艦載機2機から機銃掃射を受ける。何の武器も持たない無防備な木船に、艦載機は容赦なく銃撃を浴びせた。船内はすし詰めだったが、14歳から19歳までの少年兵76人、教官ら6人の命が奪われる。昭和20年8月2日正午近く、終戦を直前に控えたよく晴れた夏の日の惨劇だった。

「おかあちゃん……」と言い遺して死んでいった兵士もいたと、記録にはある。

国のため敵艦への衝突だけを夢見ていた76人の少年たちは、志半ばにして散っていった。憧れの戦闘機を、一度も操縦することもなく。

15歳だった修少年はどうすることもできずに、阿那賀港から惨状を見つめ立ちつくしていた。

「本当は、私が乗るかもしれなかったんだよ。(仲間たちは)みんな、犬死にだった」

鈴木修は、言葉少なに語ってくれた。

米機の攻撃直後、阿那賀港と鳴門港の漁師たちは、自らの命も省みずに船を出し、海に投げ出されていた兵士と死体を引き上げ、さらに住吉丸を阿那賀港に曳航する。この結果、22人ほどが助かる。

しかし、補強工事は本土決戦に備えた極秘作戦だったため、軍から箝口令が敷かれ、少年たちの死は終戦後もなかなか表には出なかった。個人よりも軍という組織が優先されていた時代だった。

鈴木修はスズキの社長、会長となり、多忙を極めてからも、戦死した友を慰めに淡路島に毎年渡っていた。「修が来たよ」と、静かに手を合わせていたそうだ。当地で開催されていた淡路島女子駅伝競走大会(1990~2008年)での、スズキチーム応援も兼ねていた時期もあった。

ちなみに、淡路島出身で三洋電機(現在はパナソニック)を創業した井植敏男らにより、犠牲となった82人の墓碑が現地に建立されたのは1965年だった。