瀬戸雄三が「もう後進に譲れ」と言っていると

鈴木修は「瀬戸君は早く辞めすぎた。若いのにもったいない。経営者は経験を積むほどに、勘は磨かれていく」と筆者に話したことがある。

一方の瀬戸はあるとき、75歳を過ぎても事実上の経営トップを務め続ける鈴木修に対して、「一体、いつまであいつは(経営トップを)やるつもりなんだ。自分の年齢を考えるべき。何より、後継者が育たない。瀬戸雄三が『もう後進に譲れ』と言っていると、鈴木修に伝えなさい」と、筆者に言った。伝言はしなかった。本当に伝えたなら、鈴木修はきっと怒るだろうと判断したからだ。

業界は違えど、いずれも激しい企業間競争で指揮を執った男だったが、オーナー経営者とサラリーマン経営者の任期、さらには経営そのものに対する考え方の違いを感じた。

「連結売上の約1.5倍の借金があった」

プロパーの瀬戸がアサヒ社長に92年に就く前、当時“住銀の天皇”と呼ばれて絶対的な権力を有していた磯田一郎会長(当時)に対しても、樋口は言った。「これからも銀行(住銀)から人を受け入れます。しかし、社長にはしません」、と。出身母体の天下り先の確保よりも、アサヒの将来を優先させる判断だった。

永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)
永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)

それでも、樋口と瀬戸はやがて反目していく。樋口が始めたゴルフの冠大会、オペラ公演、パリのレストラン事業、さらに海外事業を、瀬戸は次々とやめていったのだ。バブルが崩壊し、樋口がつくった“負の遺産”に、アサヒは苦しめられていく。92年当時、「連結売上の約1.5倍の借金があった」と瀬戸は生前に話してくれた。しかも、連結での開示義務がなかった時代だったため、この事実を社内で知るのは瀬戸をはじめ一握りの幹部だけだった。なので、生き残るためには、アサヒは売り上げを伸ばしてキリンに勝つしかなかったのだ。

一方、78年に社長に就いた鈴木修の社長会長歴は43年間に及ぶ。超長期政権を維持し続けた。社内に対立する存在は、皆無となっていく。ワンマン経営でスズキをけん引するその姿と生き様は、「中小企業のおやじ」そのものだった。