「本日は、ワゴンRでまいりました」
通された小学校の教室ほどの部屋で待っていると、やがて勢いよく扉が開き、
「オウ、イラッシャイ」
と、作業服と一緒に白いワイシャツのソデをまくった、まゆ毛の長い男が突然一人で現れた。鈴木修である。
腕白少年がいきなり入ってきた風情だった。
瀬戸は立ち上がり、深々と頭を下げ、名刺を交換すると、にこやかな表情ですかさず言った。
「本日は、ワゴンRでまいりました」、と。
すると、鈴木修は、「ホーウ、そうですか」と、よく通る声で笑顔を返す。
だが、このとき鈴木修は内心思っていた。
「天下のアサヒビールの社長が、ワゴンRには乗らんだろう。どうせ、ベンツかクラウンで来たのに違いない。調子のいいことを言いやがって、この社長はとんだ“タヌキ”だ」
鈴木修は、自身もタヌキであることを、平然と棚上げする。というより、自身がタヌキであるという意識そのものがない。
二人は談笑を続け、瀬戸は「スズキさんの宴会施設やゴルフ場でも、ぜひ当社のスーパードライをご愛飲いただけるよう、宜しくお願いいたします」と再び深々と頭を下げた。アサヒ浜松支店長、運転手とカバン持ちを務める若手営業マンも瀬戸に続き、深く低頭する。
すると鈴木修は、
「イヤー、ハハハ」と、大声を出しながら照れたような表情を作ると、体をのけ反ってみせながら、瀬戸の依頼をいなしていく。
瀬戸はアサヒが低迷していた時代からどぶ板を回って酒販店や飲食店にビールを売りまくり、営業の総大将から社長に登りつめた人物である。
瀬戸はアサヒの21年ぶりのプロパー社長
1971年からアサヒビールに旧住友銀行(現・三井住友銀行)から社長が派遣されていた。本来は、アサヒとサッポロビールとの合併を目指しての派遣だった。しかし、合併構想は流れてしまう。もともとアサヒとサッポロは大日本ビールという同じ会社だったが、GHQ(連合国軍総司令部)により1949年に分割される。これを、元の大日本ビールに戻そうとしたのだが、不調に終わった。
以来、4代にわたり住銀出身者がアサヒの社長を務めたが、ビールを知らない銀行出身者が経営を担ったため、「ナイヤガラの滝」と呼ばれる凋落をアサヒは示した。
ようやく、4人目の樋口廣太郎(元住銀副頭取)の時代に「スーパードライ」が発売される。樋口は、「ヒット商品が生まれたアサヒが発展するためには、銀行出身者でなくプロパーが社長になるべき」と住銀に対し主張。92年9月に21年ぶりのプロパー社長に、樋口から指名されたのが瀬戸だった。
鈴木修は第3代社長が病気で倒れたため、1978年に緊急登板する形で第4代社長に就いた。48歳の若さでだった。社長就任以前から、スズキの国内販売を支える業販店網を構築していった。販売現場をとことん回り、ハート・ツー・ハートで販売店主たちとの関係性を軸に、軽自動車を全国に売り歩いた。全国にディーラー網をもつトヨタや日産を向こうに回してである。
バブルが崩壊していった90年代半ば、「ワゴンR」は「カローラ」を販売台数で上回る車種別ナンバーワンブランド。鈴木修は自動車業界を代表する営業マンだった。
超一級の営業マン二人によるやり取りが演じられたが、和やかな雰囲気のまま時間は過ぎる。トップセールスという場において、和やかさとは最低限のマナーなのかもしれない。
談笑が終わり、普段なら来客を一階のエントランスまで見送る鈴木修だが、エレベーターの前で瀬戸を送る。

