スズキの行事のすべてが「スーパードライ」に
鈴木修はすぐに社長室に戻り、カーテンを少しだけ開き、「アサヒの社長はどんな車に乗っているのだろう」と、こっそりと観察したのだ。
するとどうだろう、一台の「ワゴンR」が駐車場からゆっくりと走り出し、正門の前で一時停止すると、守衛所でサインをするために降りてきたのは、さっきまで同席していたアサヒ浜松支店の若い営業マンだった。瀬戸は本当に「ワゴンR」に乗ってきたのである。軽自動車は正門を出るとすぐに左折して、市内方面へと走り去っていった。
「ワゴンR」に瀬戸が乗っているという事実に、鈴木修は完全に一本をとられた。
デスクの引き出しをあけて便せんとペンを引っ張り出すと、すぐに手紙を認める。手紙は「守衛が『瀬戸社長はワゴンRに乗ってました』と私に注進してくれまして」と、一部“作文”したが、来訪のお礼と、「ワゴンR」を利用してくれている感謝の念を存分に滲ませた。
が、それだけではない。
この一件以降、鈴木修は「スーパードライ」以外のビールを飲むのをやめ、スズキの施設で出すビールもアサヒに替えた。さらに販売店大会などの行事で供するビールをすべて「スーパードライ」に統一したのだ。ホテルがアサヒを扱っていなければ、特別に「スーパードライ」を取り寄せた。見返りを何一つ求めずにだ。ここまでやる理由は、すごくシンプルだった。
鈴木修は言った。
「日本のビール4社は、みな大手企業ばかり。でも、浜松のスズキまで足を運んでくれたのは瀬戸さんだけだから」
アサヒ社内では、この一件以降「守衛さんまで我々を見ている。営業は客先を出るまで細心の注意を払わなければならない」という教訓になっている。この考え方自体は正しい。だが、売り込みが成功した本当の理由は違う。
一つは、瀬戸が鈴木修のいる浜松まで営業に赴いたということ。そして何より、アサヒ浜松支店、すなわち営業現場が瀬戸を「ワゴンR」に乗せるという基本的な行動をした点だった。
年齢も一緒の「軍国少年」
終戦を鈴木修は姫路の特攻隊基地で迎えたが、瀬戸は同じ兵庫県の神戸市長田区にある神戸三中(現在の県立長田高校)で迎える。
瀬戸は神戸三中の4年生。授業はなく、毎日を高射砲に搭載する照準装置品を教室内で製作する勤労動員に励んでいた。神戸は何度も空襲に遭い、本来の勤労先である三菱電機の工場は焼失。設備を教室に移設しての精密品の製作だったが、焼夷弾が投下された三中も校舎の一部が焼け落ちていた。
1945年8月15日正午、玉音放送を聴き、クラスの全員が男泣きをする。しかし、誰かが訴えた。「今回は負けたが、次の米英との戦争に備えよう」と。すると全員が賛同。半製品を筵に包み、校庭の隅に大きな穴を掘って埋めたそうだ。
「埋め終わったとき、昭和20年8月15日の夕焼けがすごく美しかったのを覚えています」と瀬戸はしみじみと話してくれた。鈴木修のような兵士にはならなかったが、瀬戸も戦っていたのだ。
年齢が一緒の上、軍国少年だった点でも二人は共通していた。そのせいか、互いにウマが合い、瀬戸が鈴木修を隅田川花火大会見物に招待するなど、交流は続いた。
アサヒは発泡酒を含まないビールだけの市場で、98年にキリンを逆転する。翌99年1月、68歳だった瀬戸は社長を退き会長になる。サラリーマン社長である瀬戸の社長在任期間は6年5カ月。
01年、発泡酒を含めたビール系飲料総市場でアサヒは実に48年ぶりにキリンを逆転して首位に立つ。すると、翌02年1月瀬戸は相談役に退いた。

