時代劇などで伊達政宗が取り上げられるとき、かならずや、いっしょに登場するのが伊達家の重臣片倉小十郎。「小十郎」は片倉家の世襲名だ。

大坂夏の陣において豊臣方の名将後藤又兵衛を自刃に追い込んだ片倉重長、伊達騒動で幼君伊達綱村を支えて藩内の混乱を防いだ国家老片倉景長も、「小十郎」を名乗った。ここで取り上げるのは「初代小十郎」の片倉景綱。

片倉景綱(以下、小十郎)は、政宗の父輝宗の徒小姓として仕えはじめ、のち政宗に近侍し、家老として軍師の役割を果たすようになる。政宗より、ちょうど10歳年上だった。

小十郎が、もっとも活躍したのは、豊臣秀吉の小田原城攻めのときだろう。

政宗ら伊達家の面々は髪を水引で結び、死装束姿で秀吉と対面した。有名なエピソードだ。

このあと秀吉が奥州に攻め入ったおり、政宗は宇都宮に参上し、豊臣方の大谷吉継(刑部)のもとに小十郎を遣わした。

小十郎は、蘆名氏を攻めたことを詫び、政宗が死罪にならずにすんだ礼を述べたうえで、封印したふたつの箱を、おもむろに差し出した。

小十郎は、まずひとつめの箱の封を切って吉継に渡した。

「蘆名旧領の絵図目録でございます」

これで蘆名旧領は、秀吉のものとなった。さらに小十郎は言った。

「伊達政宗の先祖より伝わる米沢領絵図目録でございます」

ふたつめの箱の封を切ろうとした。

吉継は、これを止めた。

「封印のまま、お預かりいたす」

本領を差し出すあまりの潔さを見て、吉継は己だけで判断しかねたのだ。

結果、蘆名旧領は召し上げられたものの、米沢領は無事にすんだ。あまりに堂々と「首」を預けた態度に秀吉が折れたと言っていい。