400人超の女性が大奥にひしめいていた
中奥と大奥のあいだは、上下二つの御鈴廊下だけで結ばれていた(ただし下御鈴廊下は江戸中期以前の記録にはない)。この廊下の入口は御錠口といわれて杉戸が立てられ、中奥と大奥それぞれの側に鈴があって、将軍が入退出する際に鳴らされた。
大奥は大きく分けて、将軍やその御台所、将軍の生母らが暮らす「御殿向」、大奥に仕える大勢の奥女中が暮らす「長局向」、大奥の事務をつかさどる「広敷向」と、三つの領域に分かれていた。
じつは、広敷向には男性の役人が何人か詰めていたのだが、しかし彼らは、広敷御錠口から先には一歩も入ることができず、朝起きてから夜寝るまでの諸々はもちろん、夜間の警備までをすべて女性が行っていた。
とはいえ、男性であっても将軍や御台所の主治医である奥医師らは、大奥に入ることができ、彼らのための便所ももうけられていた。
さて、奥女中だが、その数は時期によって異なるものの、14代将軍家茂のとき、400人ほどいたという記録がある。ただし、一口に「奥女中」といっても職務は細かく分かれ、身分や階層の違いも厳格に定められていた。
厳格に分けられていた身分と役職
奥女中はまず、将軍に直接お目通りができる「御目見得以上」と「御目見得以下」に分かれた。
御目見得以上でもっとも格式が高いのが、将軍の側近くに仕える「上臈」(3人)で、次が大奥の一切を仕切る実力者の「御年寄」(7人)。以下、座ったままの御年寄に指図され実働する「中年寄」(2人)、大奥に入った将軍を接待する「御客会釈」(5人)、将軍や御台所の側などに仕える「御中臈」(8人)、煙草や手水などを給仕する「御小姓」(2人)と続いた。
さらに、御錠口詰、御錠口助、御錠口衆、御右筆頭、御右筆、表使、呉服之間頭、呉服之間、御次頭など、多くの役に分かれていた。
一方、御目見得以下の役は、次の二の間に拝礼する席がある席以上と、その席がない席以下に分かれた。席以上は、御次、御三之間頭、御広座敷、御坊主、御切手などで、席以下には、御三之間、御末頭、御使番、火ノ番、御仲居、御末、御犬子供などの役があった。
こうした奥女中たちは、家から通うのではなく大奥に住んだ。彼女たちが起居していたのが「長局」だった。
そこには4棟の長い建物が南から北へと順に並んで建ち、いちばん南の「一の側の棟」が最大で、二の側、三の側、四の側と少しずつ小さくなった。その東に横側とよばれる小さな建物が3棟並んでいた。いずれも2階建てで、もちろん、役職や身分によって住む棟が決まっており、一の側の部屋には、御年寄や中年寄ら上層の奥女中が一人ずつ住んだ。