秀吉は死の間際、天下のかじ取りを家康に託そうとした

『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、病状が悪化した秀吉は、家康と前田利家をそばに招きます。そして、次のように言ったとされます。「私の病は重く、そう長くはない。秀頼が15、16歳になるまで、命を永らえたいと思っていたが、それがかなわないことは悲しいこと。私が死んだ後は、天下の大小のことは、皆、内府(家康)に譲ろうと思う。私に代わって、万事、よきに計らえ」と。秀吉は、何度もそう繰り返したようです。

しかし、家康は秀吉の申し出を固辞。すると、秀吉は「それならば、せめて秀頼が元服するまでは、内府がその後見をし、政務を執って欲しい」と言ったそうです。そして、前田利家に向かい「天下のことは内府に頼んでおけば、安心。秀頼の補導ほどうに関しては、ひとえに、利家の教諭を仰ごうぞ」と依頼します。利家は涙を流して、秀吉の言葉に感謝したようです。

秀吉の御前から引き下った後、家康は利家に「殿下(秀吉)は、秀頼のことのみが、お心に懸かるようだ。殿下の遺命に背かないという私と貴方の誓状(誓約書)を進上すれば、殿下も安心されるのではないか」と提案します。利家もそれに賛同したので、2人は誓状を秀吉に提出したことから、秀吉は大いに喜んだそうです。

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秀吉の死因は腎虚(精液欠乏による衰弱)という説もあり

同年8月5日、秀吉は自筆の遺言状をしたためます。「返す返す、秀頼の事、頼み申し候」という有名なものです。「五人の衆(五大老)に頼み申し上げ候、委細、五人の者に申し渡し候(中略)秀頼の事、成り立ち候ように(中略)頼み申し候。何事もこのほかには、思い残すことなく候」とあります。死の間際の秀吉の脳裏には、やはり秀頼の行く末のことが占めていたのです。

秀頼は、秀吉と淀殿との間に生まれた子であるとの説が一般的ですが、実は秀頼は秀吉の子ではないという「異説」もあります。秀吉は子種がないと思われており、秀頼は、淀殿と大野治長(淀殿の乳母・大蔵卿局の子)が密通して生まれたとする俗説が江戸時代からあるのです。

秀吉の死因についても諸説あります。例えば、毒殺説。明国(中国)の使節により毒殺されたとの説もあるのですが、確かな根拠なき、俗説でしょう。病死説が妥当と思われます。では、どのような病で亡くなったのか、それも諸説あります。女性との性交が多過ぎたためによる腎虚(精液欠乏による衰弱)死亡説がありますが、それだけで死んだとも考えられません。亡くなる数年前から咳をしきりにしているということで労咳(結核)死亡説もあります。歴史学者の故・桑田忠親(國學院大學名誉教授)は労咳説が「最も無難」と述べています。