どちらも「使い方しだい」ということ

そもそも健康診断とはどういうものだろうか。一般的には「採血による異常値の発見」と思われがちかもしれないが、私たち医療者は、健康診断とくに高齢者の健康診断の意味を異常データの抽出だけなどとは考えていない。

介助なく、杖などの歩行補助具を使わずに、独歩で診察室に入って来ることができるのか、言語コミュニケーションがスムーズに行えるのか、退室時にイスからスッと立ち上がれるのかなどの身体・認知機能、そして食事、排泄、睡眠、入浴など日常生活をどの程度自力で行えているのか、さらには独居なのか老老介護の状況に置かれているのか、いざとなったときに相談できる身内は近くにいるのかといった家族構成まで聴取することさえある。

データや身体診察での異常発見だけでなく、疾病とまではいかなくとも、まだ要介護には至らない状態であっても、徐々に身体機能が低下する「フレイル」や加齢によって筋肉量・筋力が低下する「サルコペニア」という状態に自分がなりつつあることを自覚せぬままでいる人を早めに発見することができるのも、健康診断の重要な機能のひとつなのだ。「かかりつけ医」を持たない高齢者にとっては、こうした健康診断は貴重な機会といえるのである。

すなわち薬も健康診断も「使い方しだい」ということなのだ。

高齢者の医療費用を削減する風潮はあまりに危険

昨今、社会保障費の増大とくに高齢者への医療や介護にかかるコスト増を「危険視」する風潮と相まって、いかに高齢者にかかる費用を削減すべきかという議論がかまびすしい。むろん過剰投薬や無意味な検査は“百害あって一利なし”だが、その一方で、「高齢者には投薬不要」などと画一的に語られる言説の端々に「医療資源の適正配分」を主張する文脈を垣間見るとき、私は違和感以上の恐怖を覚えてしまうのである。

「高齢者への医療はほどほどで構わない」との言説の中に見え隠れする「高齢者の医療費は将来世代へのツケ」「高齢者に費やす医療資源は若者や現役世代へ回すべき」との主張と、「高齢者は集団自決すべき」との言葉に象徴される社会保障費抑制論、そして「命の選別」を肯定する生産性や経済効率至上主義の思想とが、極めて親和性が高いところに存在するというのがその理由だ。

「○○歳以上の人には薬も健康診断も必要ない」というような、一見わかりやすい記述でこれまでの医療の常識を「一刀両断」する記事を読めば目から鱗が落ちるような気にもさせられ、つい影響されてしまうのも無理からぬことではあるが、断定的かつ画一的な表現が散りばめられている「わかりやすい」記事については、鵜呑みにすることなく、軽く眉に唾をつけて読み流すことも大切ではなかろうか。

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