感化の力が世界宗教を生んだ

感化には言葉や理屈を超えたものがあります。キリスト教自体が、イエスの受難による感化によって世界宗教に発展したと言えるのです。

イエスにはペトロやヤコブ、ヨハネなど十二使徒と呼ばれる弟子たちが取り巻いていました。ところがイエスからすると信仰心において皆物足りない。

嵐のガリラヤ湖を渡る際に怖気づいたり、悪霊に取りつかれた子どもから悪霊を取り除くことができなかったり。

一番弟子を自任するペトロに至っては、イエスがエルサレム近くで捕らわれそうになると、「私はどんなことがあっても逃げません」と言ったのにもかかわらず、逃げ出してしまいます。そして、追っ手に問い詰められると「イエスなど知らない」としらを切るのです。

神の子イエスから見たら実に情けない弟子たちなのですが、そんな彼らが、イエスが十字架に架けられ命を落とした数日後、復活したイエスに遭遇することで変容を遂げます。

それは復活という奇蹟に直面したということもあるでしょう。しかしもっと大きいのは、無実の罪で十字架に架けられるというイエスの受難、自己犠牲を目の当たりにしたことです。

人間が本当に影響を受け、感化されるのは、何かに奉仕したり殉じたりという、自己犠牲の姿に直面したときです。イエスは自らの命を差し出して、人間の原罪を贖いました。その自己犠牲の行為がダイレクトに弟子たちに伝わり、彼らを感化し変容させたのです。

ちなみに十字架の刑は最も残酷な処刑法だと言えます。手足を太い釘で十字架に打ち付け立てかけます。自重で傷口が広がり痛みとともに血が流れます。

体が下に下がることで横隔膜を上下することが困難になり、呼吸ができなくなり窒息死します。それまでかなり時間がかかり、長く苦しみが持続するのが十字架刑なのです。

その生々しい姿こそが、人間の罪の重さとそれを贖うイエスの自己犠牲です。そのイエスの圧倒的な自己犠牲ゆえに、弟子たちは復活したイエスを見て変容したのです。

情けない弟子たちは、イエスに倣って、自己犠牲の気持ちで周囲に宣教を始めます。そのため迫害に遭い殉教した者もいます。それが初期のキリスト教会の始まりとなり、世界宗教であるキリスト教の原点となっているのです。

自ら下敷きになり客車を止める究極の自己犠牲

自己犠牲が人を感化し変容させるという話は、三浦綾子さんの『塩狩峠』という小説を読むとよく分かります。主人公の永野信夫は敬虔なプロテスタントで、周囲からの人望も厚い男です。

あるとき部下の三堀が同僚の給与袋を盗んだことで糾弾されますが、永野はそんな三堀を自分の下で働かせます。

この三堀という人物が生来のひねくれ者で、人格者で人望の厚い永野の言動がうっとうしくて仕方ありません。何度も永野に突っかかり、偽善者呼ばわりします。