多くの国民が見送った
しかも、憲法論・法律論だけでなく、実際に昭和天皇が崩御された際の国民の反応には、まさに「国民統合」の「象徴」たる天皇への素直な敬慕の気持ちが溢れていた。
その一端だけを紹介すれば以下の通りだ(『昭和天皇実録』第18巻による)。
○昭和天皇がご闘病中、昭和63年(1988年)9月22日から翌64年(1989年)1月6日(崩御前日)まで、宮内庁は国民からのお見舞い記帳を受け付けており、その数は約198万人におよんだ。
○崩御に伴って、1月7日から同16日までに、弔問のため記帳に訪れた国民の総数は約233万人にたっした(1月8日からは平成元年)。
○1月22日から24日まで皇居・宮殿東庭において、長和殿の東庭側の廊下に昭和天皇のお写真が掲げられ、同写真を通して昭和天皇のご遺骸を納めた殯宮への拝礼が行われたが、この殯宮一般拝礼に加わった国民は約33万9千百人にのぼった。
○2月24日の「大喪の礼」当日、一般の霊柩車に当たる轜車(この時に使われたのはニッサン・プリンスロイヤル)が皇居から武蔵陵墓地に移動される間、沿道には約36万6千人がお見送りした。
少し個人的な思い出を語れば、私も大喪の礼当日、青山通り近くの沿道で多くの人たちに交じって、轜車をお見送りさせていただいた。
この日は小雨が降っていたが、お車が近づくにつれて、沿道の人々は自発的に次々と傘を閉じて、雨に濡れながら頭を垂れ、深い悲しみの中、粛然としてお見送り申し上げた。その時の記憶が今も鮮やかだ。
まさに「国民統合」の象徴であられた方をお送りするのにふさわしい光景だったと思われる。
「国葬」に求められる慎重さ
その皇室においてさえ、ご葬儀が「国の儀式」として行われるのは「天皇」と「上皇」のみだ(ただし、昭和天皇の母宮に当たられる貞明皇后のご葬儀は例外的に「事実上の国葬」として、昭和26年[1951年]6月22日に行われた)。
評価の対立が避けにくい政治指導者の場合は、「故人に対する敬意と弔意を国全体として表す」気持ちが本当にあるならば、よほど慎重な考慮と丁寧な手続きによって、幅広い国民の納得を得ることが、何より欠かせないはずだ。
このような時こそ、岸田首相がかねて標榜してきた「聞く力」を、存分に発揮すべき場面だったのではないだろうか。