数え年三歳で家督を継ぐ

小林一三は、明治六年、山梨県北巨摩郡韮崎町に生まれた。その名前は、誕生日が一月三日だったことにちなんだという。小林家は富農で、農業だけでなく、酒造や生糸などを手広く商っていた。母のいくは家つき娘であった。甲州でも一、二と言われた豪農の丹沢家から婿として甚八を迎えて、一三を産んだが、産後、半年にして病死し、父甚八は、実家に戻った。

その後、甚八は、甲州の酒造家、田辺家に婿入りし、七兵衛と改名している。甚八改め七兵衛は、田辺家に四人の男子をもたらした。長男の七六は、衆議院議員となり、中央電力、日本軽金属の社長を務め、次男宗英は、後楽園スタヂアムの社長、三男の多加丸は、日本勧業銀行の理事になっている。

つまるところ、七兵衛の息子たちは、いずれも一廉の人物となったわけだ。一三は数え年三歳で家督を相続した。跡取りであったため、周囲からの羈絆きはんを受けることなく、野放図に振る舞っていたという。

韮崎の小学校を卒業した後、当時、地元では最も先鋭的で英語、数学を教授する、八代の加賀美嘉兵衛の成器舎の寄宿生となったが、翌年、腸チフスに罹り、休学を余儀なくされている。

文学に夢中になった慶応義塾大学時代

明治二十一年二月、一三は、上京し慶應義塾に入学し、当時、塾監の任にあった益田英次(鈍翁益田孝の弟)の家に下宿した。慶應在学中、一三は演劇と文学に耽溺した。坪内逍遙が『小説神髄』を発表し、尾崎紅葉、山田美妙、二葉亭四迷、幸田露伴ら、明治文壇を担う豪傑たちが澎湃として登場していた頃である。

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一三が昂奮するのも無理はない。しかも一三の慶應における保証人であった高橋義雄(箒庵)は、書肆金港堂と懇意で、みずからO・ヘンリーの翻訳を手がけていた。保証人が先を切って文学の道を歩んでいるのだから、一三が勇みたつのは当然のことだろう。

高橋は、時事新報の記者になった後、三井銀行に入った。一三は文学への志を捨てがたく、当時、文芸新聞として名を馳せていた都新聞の記者を目指したが――当時、新聞の連載小説の執筆は記者の領分だった――、同社の内紛により果たせず、結局、高橋の斡旋あっせんで三井銀行に勤めることになった。