江戸大際の遊郭で火事が頻発したワケ

また、時代が下るにつれ、中心的な顧客だった武家が財政難に陥り、吉原で遊ぶ余裕がなくなっていった。このため、身分が高く教養がある客を相手にする太夫や格子といった上級遊女が絶滅し、吉原は大衆化路線を歩むことになった。それが蔦重が若かったころの吉原だった。

大名や豪商のような客に頼れず、中下級武士や一般庶民を相手に営業しなければ廃れてしまう。それが蔦重の時代の吉原で、「俄」に力を入れて吉原観光の客を呼び寄せようというのも、大衆化を迫られていたからだった。

しかし、商人の知恵や経済力を活用した田沼意次の時代に、なんとか転機を乗り切った吉原も、松平定信が寛政の改革をはじめると、一気にしぼんでしまう。

天明7年(1787)から寛政5年(1793)にかけて行われた寛政の改革の目玉は、困窮する旗本や御家人を救うために、彼らが新興商人の札差などから借りていた借金を帳消しにする「棄捐きえん令」だった。だが、その結果、江戸の金融界はほとんど恐慌状態に陥り、それまで羽振りがよかった客のほとんどが、吉原に通えなくなってしまった。

また、非公認の岡場所などが厳しく取り締まられ、職を失った私娼たちが大量に吉原に流入し、吉原の遊女の数は増えていった。

そのころから吉原では、火事が激増するのである。

歌川広重〔画〕『江戸の華』下,写.
歌川広重〔画〕『江戸の華』下,写. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照:2025年3月26日)

火を放った犯人の正体

吉原が日本橋人形町のあたりにあった「元吉原」から浅草の「新吉原」に移ったのは、明暦3年(1657)のことだった。以後、延宝4年(1676)から慶応2年(1866)までの190年間に、22回も全焼している。しかも、そのうちの18回は明和5年(1768)から慶応2年までの100年足らずの間に集中している。

寛政の改革について前述したが、天保年間(1830~44)に水野忠邦が行った天保の改革では、さらに徹底して綱紀粛正が強いられた。江戸の岡場所が70カ所以上も廃され、遊女屋も私娼も吉原に送られたほか、天保の大飢饉で疲弊した農村からも、売られた娘が大量に吉原に流入した。

その結果、田沼時代には2000人余りだった吉原の遊女と禿の総数は、天保年間に約2倍の4000人台にまで膨張。遊女たちの置かれた環境は劣悪になり、多発する放火へつながっていったと思われる。

天保年間をはさんで、文化文政時代(1804~30)から慶応2年までの10回の火事には、主犯についての記録があり、いずれも遊女の付け火とされている。