死刑ではなく島流しのワケ

弘化2年(1845)12月の放火については、江戸時代末期の江戸を中心とした諸記録が集められた『藤岡屋日記』に概要が記されている。京町二丁目の川津屋の遊女、玉琴が腹の具合が悪くて客が帰ってしまったら、楼主の妻が玉菊をちり払いの棒で打ちのめした。耐えかねた玉琴は六浦、姫菊という2人の遊女と相談のうえ、放火を決意。内風呂の軒下に積んであった炭俵と薪に火をつけたところ、燃え広がって吉原が全焼したという。

また、嘉永2年(1849)には1年で3回も放火があり、とくに8月1日に京町一丁目の梅本屋が放火された騒動では、16人もの遊女が結託して火を付けていた。結果、遊女にろくに食事もさせず、稼ぎが少ないと殴る蹴るの暴行を加えていた梅本屋の実態が明らかになっている。

江戸時代には放火は大罪で、原則として火刑になり、ボヤで終わっても死罪を免れないのがふつうだった。ところが吉原の遊女の場合は、遊廓が全焼するほどの大火を招いても、ほとんどの場合、八丈島などへの流罪に減刑されている。町奉行所も彼女たちが、苦界のつらさに耐えかねての犯行であることを理解していたので、情状酌量されたのである。

ちなみに、河津屋に火を付けた3人はいずれも数えで15歳に達しておらず、遠島での自活が困難なため、いったん親元に返すなどの恩情措置があったようだ。

八丈島に流刑になった流人による記録『八丈実記』には、文化文政および天保年間に放火で流罪になった14例が記されている。このうち10人が女性で、5人は吉原の遊女だ。

また、先の事例では、藤岡屋の楼主の妻には、「叱り」(役所に呼び出されて奉行や代官から叱責される)のなかでもより重い「急度叱り」が科せられ、梅本屋は全財産没収のうえ楼主は流罪になっている。ひどいパワハラにおよんだ女郎屋の側も、それなりに処分されたのである。

火事を心待ちにしていた遊女の心境

ところで吉原が全焼すると、250日、300日などと期間を区切って、吉原以外の場所に設置した「仮宅」での営業が認められた。吉原からあまり遠くない浅草、本所、深川など、もともと岡場所があったような地域が選ばれることが多かった。仮屋も建てるが、多くは料理屋や茶屋、商家、民家などを借りて、女郎屋仕様に簡単な改装をほどこしたようだ。

『新吉原仮宿両国の図』喜多川歌麿・作
『新吉原仮宿両国の図』喜多川歌麿・作(写真=メトロポリタン美術館・JP735/CC-Zero/Wikimedia Commons

しかし、全焼になるような火事がこれほど多かったので、仮宅営業は明和5年(1768)から安政2年(1855)の間だけで4500日もあり、「仮」とはいえないほど多かった。

とはいえ、仮宅はあくまでも仮で、揚げ代や祝儀金が安く、格式ばったしきたりも無視されたので、庶民にも利用しやすく、客は大幅に増えた。このため、経営危機だった遊女屋が仮宅で持ち直すことも珍しくなく、火事になるとよろこんで、消火活動はせずに借り店の受け借りに奔走する楼主もいたと記録されている。

また、楼主ばかりでなく、仮宅を心待ちにしていた遊女もいたという。日ごろ吉原の外に出ることができない遊女も、仮宅のあいだは町内の湯屋や寺社の参詣、あるいは舟遊びや花火見物にも出かけることができたからである。