存在の醜さにつながる物語の展開
このように様々な問題があることを意識しつつも、この短編で扱われている美醜、特に醜さのテーマを検討したい。差別的であるからと醜いという言葉を隠蔽するだけでは、実は醜いとこころのなかで思っていても言わないだけのことであって、本質的な解決にはならない。それと向かい合っていく必要があろう。
この短編で醜さがクローズアップされるのは、ここでのテーマが否定的なものであるのに関係している。実際のところ、そのF*という女性に関連して、詐欺や犯罪という見かけだけでない醜さに物語は展開していく。見かけの醜さは表面的なものに終わらず、こころと存在の醜さにつながっていくのである。
しかし美醜というのは、非常に相対的で主観的なものである。ある時代や文化において美しいとされるものが、必ずしも別の文化では美しいものではない。それどころか、語り手は美しさについて、次のように述べている。
〈僕の知る美しい女性たちの多くは、自分の美しくない部分――人間の身体環境には必ずどこかにそういう部分はあるものだ――を不満に思い、あるいは苛立ち、その不満や苛立ちに恒常的に心をさいなまれているようだった〉
一般的に美しいとされている人も、自分の美しくない部分を意識し、それにこだわってしまっているという。いわばその部分が自分のコンプレックスになっているのである。

美醜とは見方ひとつで変わってしまう
逆に〈どんな醜い女性にだってどこかしら美しい部分はある〉という。つまり美しさや醜さとは極めて主観的なもので、受けとめ方の不思議がある。語り手はさらに次のように付け加えている。〈僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。〉
美しい、醜いも見方ひとつで変わってしまう。だから「醜貌恐怖」という心理的な症状も生まれる。
これは日本人に典型的な神経症とされてきた対人恐怖のなかの一つの極端な現れ方である。対人恐怖は自意識による症状で、自分が見られているとか、噂をされているとか思って、人が怖くなってしまうものであり、実際に他人に見られたり、噂されたりしているかどうかはわからないが、そのように外から自分を否定的に意識してしまうことによって生じるものである。
その極端な形である醜貌恐怖は、自分が醜いのではなかろうか、身体、特に顔のある部分が変なのではなかろうか、などと思ってしまう病理である。実際にそのような訴えをする人に会っても、客観的に醜かったり、特に問題があったりするわけではないが、本人にとっては深刻な問題なわけである。