両極化した特別なしるしとしての魅力

繰り返すが、美醜というのはすぐれて主観的な問題で、あくまで相対的なものなのである。個人的な見方に加えて、文化的・時代的なものもあり、美醜の見方に関しても一方で世界がグローバル化して同じような捉え方が広がると同時に、他方で多様な見方が生まれ、尊重されるにともなって、美醜の問題はある意味で両極化していると言えよう。

語り手は、〈自分が醜いと自覚している醜い女性の数はそれほど多くはない〉ことを確認したうえで、〈彼女は実に普通ではない〉、〈そしてその普通でなさは僕のみならず、少なからざる数の人々を彼女のまわりに惹きつけることになった〉としている。

つまり醜いとは、美しいのと同じように、特別なことのしるしであり、この世ならぬものであり、そこに独特な魅力があるというわけである。だから彼女は多くの人を惹きつける。

集団の中で一つだけ赤くペイントされ目立っている人形
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醜いことに備わる超越性

醜いというのは、スティグマであるが、スティグマというのが元々キリスト教のコンテクストで「聖痕せいこん」を意味することに表れているように、特別なことのしるしである。それを多くの物語は、醜から美への転換として表現する。

たとえばアンデルセンの童話、「みにくいアヒルの子」は醜いとされてきたアヒルの子が最後に美しい白鳥になる物語であり、「美女と野獣」では、醜く恐ろしい野獣が、愛の力によって最後は麗しい王子になる。

しかしこれは実は、醜い存在として現れてきていること自体が、特別な存在であることを示唆しているのではなかろうか。必ずしも醜いという否定的なものが美しいという肯定的なものに変わるのではなくて、美しさとは、醜いという形で最初に現れてきた特別な存在が本来の自分のあり方を実現できたことを象徴しているに過ぎないのであろう。

その意味で、醜いということには特別さと超越性が備わっている。この短編における女性にもそのようなものが備わっていたのであろう。