出会いに待ち受ける様々な危険
出会いは、これまで知らなかったものや人に巡り会うことになるだけに、すばらしい経験になったり、自分の人生を飛躍させる機会になったりすることもあれば、逆に思いもよらないような恐ろしい結果に終わることもある。
「通り魔」などということばがあるように、突然の出会いは時には犯罪や死にさえつながることがある。近年において、婚活などにおいてもあたりまえのようになってきているインターネットでのSNSやアプリを通じての出会いにおいても、様々な危険が待ち受けている。
そこまでではなくても、出会った人の思わぬ面に後々遭遇して驚かされることはあるであろう。これから取り上げる村上春樹の短編「謝肉祭(Carnaval)」は、そのような出会いの影の面、特に出会った相手の否定的な面に焦点を当てたものである。
〈彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった〉(村上春樹『一人称単数』文春文庫/以下同)という意外な一文から短編「謝肉祭(Carnaval)」は、はじまる。
この仮に「F*」と呼ばれる女性は、語り手がある程度近しい関わりを持った女性たちのなかで、いちばん醜い女性だったという。
ヒロインの「醜さ」が意味するもの
出会いにおいては、最初の印象が非常に大切である。「一目惚れ」などという表現があるように、そこで何らかの魅力を感じたり、お互いに惹かれ合ったりというのがないことには出会いはなかなか生じてこないであろうし、その魅力のなかでも美しさというのは重要な要素であろう。
典型的なのは、同じく『一人称単数』に収録された短編「ウィズ・ザ・ビートルズ」における、同じ高校に通っていた少女との魅惑的な出会いである。しかし「謝肉祭(Carnaval)」での女性は醜いとされる女性なので、出会いにおける典型的なパターンから外れてしまっている。
また醜さというのは、扱うことがむずかしいテーマである。「いちばん醜い女性だった」と書いても、〈F*はたぶん気にもしないだろう〉とされているけれども、他人にはっきりと醜いと言われれば多くの人は非常に傷つくのではなかろうか。さらには社会的にも、人の外見を元に否定的に批評することは、身体障害に対するのと同じような人権無視や差別的な言動として問題視されるのではなかろうか。
特に男性が女性の醜さに言及する場合には、男性が女性を一方的に評価する男性優位社会の問題が指摘されるかもしれない。誰かを「醜い」と言うことには、ある種のタブーが伴っている。
