次の天皇は誰か、臣下の道長より中宮彰子に決定力があったが…
三条天皇即位後、誰を東宮にするか。一条天皇はもちろん最愛の定子所生の第一皇子敦康親王を望んでいた。ここで、また道長の知恵袋藤原行成が、後見者のいない皇子を東宮にするリスクを一条天皇に開陳する。重病の一条天皇も仕方なく敦成親王東宮を承諾する。その後である。道長は彰子の殿舎を避け、彰子に告げることなく決定してしまう。一条天皇の遺志も踏まえ、まずは敦康親王を、次に敦成親王と考えていた彰子は、道長の決定に怒りをぶつける。本来、道長より中宮、ましてや後の国母の方が本来決定力を持っていた。だからこそ、道長は彰子に伝えなかったのである。
一条天皇没後の彰子は、黒ずみの喪服に身をつつみ、悲しみに耐えている姿が、道長のライバル藤原実資の日記『小右記』に散見される。
大河ドラマが描かなかった、彰子が道長の宴会を中止させた逸話
長和2年(1013)2月のことである。道長は親しい殿上人に通知を出し、皇太后彰子の枇杷殿で一種物を計画する。持ち寄りコンパである。ところが、彰子は中止させる。
「父道長が権力を持っている時は皆従うだろう。しかし道長が亡くなった後では皆が誹謗するに違いない」との理由からである。道長のライバル、藤原実資は「賢后なり」と絶賛している。宴会好きな妹の妍子への忠告でもあった。殿上人が持参するー種物は、たとえば、銀で作った鮭の入れ物に、干した鮭などを入れて持参するなど、大変な負担だったからである。
もっとも、彰子は宴会等の「おもてなし」の効力は熟知しており、自身が設定する宴会はよくやっている。道長が朝廷での会議の後、参加していた実資などの殿上人を引き連れ、突然彰子の邸宅枇杷殿にやってきても、彰子は酒やごちそうを出し、「おもてなし」をしている。「おもてなし」の効用は熟知しており、まさに「賢后」だった。母源倫子から学んだ処世術だと思われる。