長男の後一條天皇即位時、国母として史上初めて高御座に昇ったか

長和5年(1016)年2月7日、9歳の敦成親王が後一條天皇として即位する。彰子は大極殿の高御座に一緒に昇る。史料的に初めての同座である。天皇の後見者として視角的に人々へのアピールである。

実際にも、摂政になった道長は、彰子の殿舎に執務室を置き、そこで公卿を集め会議を行う。当然ながら、御簾の中の彰子の意を受けてのことである。国母の政治力は史料が多く遺されており、摂政はいわば国母の代行者・代弁者といえようか。

長元4年(1031)閏10月、彰子は延暦寺の横川如法堂に、天皇と民衆の安穏を記した願文を収めている。大正12年(1923)、金銀鋳宝相華唐草文経箱が発掘され、国宝になっている。まさに、彰子が法華経を書写し納めた経箱である。彰子が政事に心をくだいた確かな証拠である。

2人の皇子、後一條・後朱雀の後、孫の後冷泉天皇・後三条天皇、曾孫の白河天皇まで彰子は天皇家の家長として、生活や政事を支えていく。天皇のキサキ決定も彰子が行った。

「民のために」行動したのは、道長より女院彰子の方だった?

従来、後三条天皇の母は、三条天皇の皇女で摂関家と関係ないので、後三条天皇は摂関家と対立し天皇親政を目指した、とされていたが、近年の研究では否定されている。そもそも禎子内親王は道長の娘妍子所生しょせいであり、禎子内親王を東宮敦良親王に入内させることを決めたのは道長である。当時は、父方のみならず、母方も親族として対等に近く扱う双系性社会だった。

たしかに、道長没後、頼通は即位した後朱雀天皇に養女を、教通も娘たちを入内させる。すでに皇女2人と尊仁親王(後の後三条天皇)を出産していた禎子内親王は、怒って宮中へ入る事もなくなる。しかし、出家して上東門院になっていた彰子は、禎子内親王の出産場所や尊仁親王の邸宅などを提供し、彰子の側近が様々に援助している。けっして、摂関家と対立していたわけではない。

彰子は、87歳の長寿をまっとうした。のちの白河院(後三条天皇の皇子である白河天皇の退位後。院政を行った)は、政務への関与の先例として上東門院の事例を踏襲する史料が散見する。最近の研究では、上東門院彰子こそ、摂関政治と院政の橋渡しをした偉大な女院だと評価されている。

服藤 早苗(ふくとう・さなえ)
歴史学者

1947年生まれ。埼玉学園大学名誉教授。専門は平安時代史、女性史。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。文学博士。著書に『家成立史の研究』(校倉書房)、『古代・中世の芸能と買売春』(明石書店)、『平安朝の母と子』『平安朝の女と男』(ともに中公新書)、『藤原彰子』(吉川弘文館)など。