芸能人や政治家の不倫報道には、話題になるものとならないものがある。この差は何なのか。作家の鈴木涼美さんは「不倫は『誰とするか』によって悪事のレベルが変わる。女性のコンプレックスを刺激するような相手との不倫だった場合、炎上の火は広がっていく」という――。
※本稿は、鈴木涼美『不倫論』(平凡社)の一部を再編集したものです。
「面白い不倫」と「面白くない不倫」
最近では文春砲の印象が圧倒的に強くなってしまった不倫報道といっても濃淡色々とあり、やや人権意識の低かった時代には現在よりさらにプライバシーに深く関わるものや、執拗な付き纏いなどもあった。
というわけで色々あるスキャンダル報道だが、少なくともこの世のゴシップ記事には2種類ある。面白いものと面白くないものだ。
たとえばヒロスエは明らかに面白い。どちらにせよ巻き込まれた家庭や当事者には、時に不当なほどのダメージや少なくとも傷ができるのだが、個人的には傷つきというのは必ずしも人生や人間関係において、回避し続けなければならないものとも思わないし、そもそも現代のカップル間に生じる歪みやトラブルというのは片方の非がどれだけ明らかでも、どれだけ明確に悪を指摘できても、自由恋愛と自由な尺度での見極めを重ねて選んだ歴史を感じるので、外野による代弁や糾弾には限界がある。
しかし、面白い/面白くないと感じるこちらの視点は、こちらが想像できるその傷の大きさやその不倫の潜在的な暴力性と無関係ではない。
話題にならなかった五輪競泳選手の不倫
2020年、五輪内定中だった競泳選手の不倫が報道され、スポーツ界で波紋を呼んだことがあった。「スポーツ界で」とわざわざ書くのは当然、一般社会で特に話題にならなかったからで、話題になっていないのは当然、そんなに面白くないからだ。
しかし話題の小ささと、当事者たちの傷の大小は比例するわけではない。むしろ、話題としてつまらなく感じる不倫が、当事者たちのダメージだけが大きいことは往々にしてあり、そこにこそ、不倫の品格、不倫のセンスがあらわれる。