電車で目の前にいる人を超え外部の人と通話するのは「無礼」
もう一点は、対面的な現実空間に遠隔的な情報空間が重なり合うことによる問題である。公共交通における「儀礼的無関心」は、たんなる無視ではなく、他人同士として適切な距離を維持するための「儀礼」として無関心を装うことであった。しかし、モバイルメディアの向こうにいる人を優先して通話をすれば、車内にいる人間はおきざりにされる。その結果、情報空間の顕名的・個人的関係を重視した、交通空間の匿名的・公共的関係に対する「儀礼なき無視」として認識される。
しかも、電車内での携帯電話の通話の場合、こちらの利用者の声は聞こえるが、電話の向こう側がどんな人なのかはわからない。話している内容も、多くの場合、聞こえない。通話の声すら迷惑であるのに、片方のみの内容は雑音でしかないだろう。また、見知らぬ人のプライベートな内容が耳に入ることによる気まずさもある。そうした個人情報が耳に入れば、見知らぬ他者としての心理的な距離がややとりにくくなる。
もちろん通話をする人にとっては、個人的な関係や都合で通話せざるをえない事情があるかもしれない。その意味では、車内とは別の関係と空間の規範にしたがった行為ともいえるだろう。たとえば、車内での通話時に顔をそむけて、口元を手でかくして通話する人びと(やそうした様子を描いたマナーポスター)が存在している。
「歩きスマホ」も現実ではなく情報空間に没入した「迷惑行為」
このような身振りは、現実空間で共在する他者に「本当はいけないのですよね、すいません」と言い訳しつつ、情報空間を通じて不在の他者と通話を続けざるをえないジレンマを表現している。また、こうした通話のしぐさは、「無視しているわけではないのですよ」ということを暗に示さなければならない儀礼的秩序が電車のなかに存在することを裏付けている。
2010年代後半以降に大きな問題となった「ながら操作」、あるいは「歩きスマホ」という行為も、現実空間の認識がおろそかになるほど情報空間に没入した「迷惑行為」となる。こうなると端的に衝突や転落の危険があることはもちろんのこと、他人同士としての「あえての無関心」ではなく、モバイルメディアに集中しすぎた、周囲の状況への「ただの無関心」であることの不快さもでてくる。
こうして情報空間と現実空間が重なり、「視覚の秩序/聴覚の秩序」、および「匿名的・公共的関係の規範/顕名的・個人的関係の規範」の区別が混線する(図表4)。つまり、モバイルメディアは、「うるさくて無視された感じがする」がゆえに、「迷惑」、「不快」、「危険」と感じられるようになったのではないだろうか。
1978年生まれ。日本女子大学人間社会学部教授。慶應義塾大学文学部卒業、筑波大学大学院人文社会学科研究科修了。現代都市のインフラ(公共交通、消費空間、情報環境など)について社会学的に研究している。共編著に『ネットワークシティ』(北樹出版)、『ガールズ・アーバン・スタディーズ』(法律文化社)などがある。