スマートフォンの使い方についての解像度が上がる

ケータイの「迷惑」の内容の変化は以下のようにまとめられるだろう。1990年代後半以降、電車内の携帯電話は健康被害の可能性が指摘され、厳格な利用指針が存在した。ただし、そうした理由をタテマエとしながらも、新しいテクノロジーであった携帯電話そのもの、およびその主な担い手である若者への嫌悪感もにじむ。

しかし、2000年代後半以降、モバイルメディアの爆発的な普及のなかで、その「不快さ」がどこに由来するのかがより詳細に理解され、「迷惑行為」の内実が明示されるようになる。それは、モバイルメディアの「声と音」と「ながら操作」に対するものであった。さらに、2018年以降の「迷惑ランキング」では、モバイルメディアの「迷惑」に関する追加の質問項目が設定されており、その内容に対する解像度がさらに上がっている(図表3)。

マスクをして電車で電話する若い女性
写真=iStock.com/anon-tae
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ただし、当初、問題となっていた「混雑した車内での操作」の選択割合は急減し、「通話や着信音の迷惑」も低下している。その一方で、選択割合が高まったのは「ながら操作」であった。

モバイルの「声と音」と「ながら操作」はなぜ迷惑なのか

では、モバイルメディアの「声と音」と「ながら操作」はなぜ迷惑なのだろうか。

ここでは、電車のなかにおいて二つの問題が重なることで「迷惑」と感じられるようになったと考えることができるだろう。ひとつは「視覚的なコミュニケーションの秩序」として維持されている車内空間に、「聴覚的コミュニケーションの秩序」が侵入するという問題である。聴覚刺激を抑制し、視覚を重視した公共交通の秩序維持は、狭く、閉じられた空間のなかで近接する人びとが、他人同士として距離をとって共在するためのものでもあった。

2000年代に広く普及していった携帯電話においても、その通話、音漏れ、操作音が問題となった。静寂の維持は100年続いた車内規範の根本問題のひとつであり、ラジオの使い方の変化で指摘したように、聴覚の感度も上がり続けてきた。そのため、モバイルメディアが発する音やそれを通じた会話も――1980年代の携帯音楽プレイヤーへの批判の延長線上にある――「迷惑行為」として認識されている。着信音を消す機能を「マナーモード」とよぶことがそのことを端的に表している。