電車での移動中に携帯電話で話すのは、なぜマナー違反なのか。社会学の観点から電車内のマナーについて考察する田中大介さんは「通話が雑音として耳障りという他に、乗り合わせただけの見知らぬ人のプライベートな内容が耳に入ることによる気まずさもある。個人情報が耳に入れば、見知らぬ他者としての心理的な距離がとりにくくなる」という――。

※本稿は、田中大介『電車で怒られた!「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

電車の中で話すビジネスマン
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電車内の秩序は「迷惑行為」を回避することで保たれる

「駅と電車内の迷惑行為ランキング」という日本民営鉄道協会によるアンケート調査の集計情報が公開されたのは、2000年以降であった。「推奨行為」のランキングではなく、「迷惑行為」のランキングと表現されているように、現代的な鉄道の秩序維持は「積極的関与」よりも「消極的回避」を重視していることがわかる。

実際、ランキングは抑制的行為を求めるような事項で占められている。この「駅と電車内の迷惑行為ランキング」は、鉄道業界を代表する全国規模の協会(旧国鉄のJRグループの多くは会員ではない)によって20年以上継続しておこなわれている。

また、2009年以降は、回答は最大3つまで選択可として設定されており、回答するうえで意識すべき「迷惑行為」の選択の幅も広がっている。それにあわせて2008年までは10位までの掲載であったが、2009年には16位まで掲載され、その後、さらに増えていった。その結果、2023年時点で19位まで増えている。

たとえば、2018年「優先席のマナー」、2019年「咳・くしゃみ」、2020年「エスカレーターのマナー」、2021年「ペットの持ち込み」、2023年「強い香り」などが付け加わっている。このようなアンケートの設問や内容の推移は、鉄道事業者・乗客双方のマナーに対する解像度が上がっていることを物語っている。あるいは、中心的なマナーが定着して、マンネリ化が進み、やや迷走しているようにもみえなくもない。

迷惑行為ランキング1位は過剰な接触をするなど「座席の座り方」

アンケート調査や項目そのものにバイアスや変化があるという留保をふまえたうえで、ランキングの推移をみるとどのような特徴が見出せるだろうか。10回以上記載されている項目に限って「順位の平均」を見ると以下の通りとなる(図表1)。

1位の「座席の座り方」は、過剰な接触、効率的な席詰めや移動の阻害を戒めるマナーといえる。4位の「乗降マナー」、5位の「荷物関連」の迷惑行為も、そうしたパーソナルスペースを侵害せずに、スムーズな乗降を維持するためのものだろう。2位の「電車内で騒ぐ」、3位の「携帯電話の使用」、6位の「音漏れ」については、車内における静寂の維持のためのものと考えることができる。

「相手と距離を取って行儀よく効率的に」という電車内規範

直接的な感覚である触覚・聴覚を刺激しすぎず、視覚を中心にして距離をとって間接的にコミュニケーションをとり、行儀よく、効率的に移動すること――これらは戦前期以来の車内規範の基本構造であり続けていることがわかる。ただし、こうした車内規範の基本構造を説得するための論法は時代ごとに異なる。

また、「お互いに座席を譲り合うこと」、「何処も清潔に保つこと」、「喧騒、肌脱ぎなどの不行儀はせぬこと」の三箇条をもとにした100年前の最初の鉄道標語や戦前のアンケートに比べると、期待水準の上昇や規範内容の細分化をみることができる。とはいえ、駅や車内に新しいモノやテクノロジーが入り込んできたとしても、前記の規範の基本構造にしたがって、その扱い方を決めていくことになることは変わりなかった。

なぜ車内のケータイ通話は迷惑なのか?

とりわけ2000年代以降、車内規範でもっとも話題にあがった論点は「ケータイ」である。携帯電話・スマートフォンが存在しなかったそれまでのアンケートや標語の内容ともっとも異なるところだろう。

「駅と電車内の迷惑行為ランキング」では、2000年から2003年の第4回まで「携帯電話の使用」が不動の1位であった。第5回で初めて「携帯電話の使用」が1位を譲るが、項目表記や迷惑とされる行為の内容が変化しながらも、モバイルメディアの存在は現代の車内規範にとってノドに刺さった小骨のような厄介な問題であり続けた(図表2)。

では、なぜケータイは「迷惑」なのだろうか。1990年代半ばから携帯電話(当時はPHSも多かった)が一般的に普及しはじめると、「電車内の優先席付近では電源を切ること」と掲示されるようになる。当初、とくに問題となったのは医療機器への影響であった。携帯電話の電波が心臓ペースメーカーなどに影響をあたえ、誤作動をおこすことで深刻な健康被害をもたらすとされたのである。

優先席の目安が記載された日本の旅客列車の車外案内表
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「優先席付近では電源オフ」が緩和されたのは2013年

ただし、携帯電話の電波出力が小さくなり、ペースメーカーのシールド性能が向上することで、誤作動のリスクは軽減していく。そのため、総務省は2013年に「医療機器と携帯電話を離すべき距離」の指針を緩和している。

さらに2015年には、「近接状況になっても影響が発生するとは限らない」という文言を加えて、指針をさらに改定した。このように医療機器の誤作動という問題は次第に背景に退いていったが、携帯電話の「迷惑」がなくなっていったわけではない。むしろ、誤作動の危険という問題が重視されなくなっていくにしたがって、その底流にあった、新しいテクノロジーが電車のなかに入ってくることに対する「不愉快さ」とは何なのかが前景化していくことになる。

ケータイは「公的空間」への「私的空間」の侵入として批判

たとえば、ケータイは「公的空間」への「私的空間」の侵入、そして新しいテクノロジーを操る「若者」のふるまいの問題の象徴――個人主義の過剰――として批判された。ゴッフマンの用語でいえば、公的状況からの「離脱」(『集まりの構造』:77頁)とよばれる事態であり、儀礼的無関心というマナーからの逸脱と考えることができる。

その結果、「携帯電話の使用」は、2000年代半ば過ぎまで迷惑ランキングの1・2位を占め続けてきた。しかし、2000年代末以降、ランキングはすこしずつ低下していく。「携帯電話といえば迷惑」という反射的な意見が薄くなっていったといえるかもしれない。逆にいえば、それまでは、1990年代に頻出した若者批判と重ね合わされ、新しいテクノロジーそのものへの反発も強かった。

しかし、2009年以降、「携帯電話の使用」という項目は、「携帯電話(スマートフォン)の着信音や通話」という表記となり、さらに「操作音」という項目が分けられるようになる。つまり、携帯電話の「迷惑」は、それが発する「音」の不愉快さに焦点が絞られ、さらに「着信音と通話」と「操作音」により細かく分けて理解されるようになっている。

電車の中でスマートフォンを使っている若い女性
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2010年代後半になると、「歩きながらの携帯電話・スマートフォンの操作」という項目が加わり、その後、「スマートフォン等の使い方」、あるいは「スマートフォン等の使い方(歩きスマホ・混雑時の操作等)」という表記のなかに統合される。

スマートフォンの使い方についての解像度が上がる

ケータイの「迷惑」の内容の変化は以下のようにまとめられるだろう。1990年代後半以降、電車内の携帯電話は健康被害の可能性が指摘され、厳格な利用指針が存在した。ただし、そうした理由をタテマエとしながらも、新しいテクノロジーであった携帯電話そのもの、およびその主な担い手である若者への嫌悪感もにじむ。

しかし、2000年代後半以降、モバイルメディアの爆発的な普及のなかで、その「不快さ」がどこに由来するのかがより詳細に理解され、「迷惑行為」の内実が明示されるようになる。それは、モバイルメディアの「声と音」と「ながら操作」に対するものであった。さらに、2018年以降の「迷惑ランキング」では、モバイルメディアの「迷惑」に関する追加の質問項目が設定されており、その内容に対する解像度がさらに上がっている(図表3)。

マスクをして電車で電話する若い女性
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ただし、当初、問題となっていた「混雑した車内での操作」の選択割合は急減し、「通話や着信音の迷惑」も低下している。その一方で、選択割合が高まったのは「ながら操作」であった。

モバイルの「声と音」と「ながら操作」はなぜ迷惑なのか

では、モバイルメディアの「声と音」と「ながら操作」はなぜ迷惑なのだろうか。

ここでは、電車のなかにおいて二つの問題が重なることで「迷惑」と感じられるようになったと考えることができるだろう。ひとつは「視覚的なコミュニケーションの秩序」として維持されている車内空間に、「聴覚的コミュニケーションの秩序」が侵入するという問題である。聴覚刺激を抑制し、視覚を重視した公共交通の秩序維持は、狭く、閉じられた空間のなかで近接する人びとが、他人同士として距離をとって共在するためのものでもあった。

2000年代に広く普及していった携帯電話においても、その通話、音漏れ、操作音が問題となった。静寂の維持は100年続いた車内規範の根本問題のひとつであり、ラジオの使い方の変化で指摘したように、聴覚の感度も上がり続けてきた。そのため、モバイルメディアが発する音やそれを通じた会話も――1980年代の携帯音楽プレイヤーへの批判の延長線上にある――「迷惑行為」として認識されている。着信音を消す機能を「マナーモード」とよぶことがそのことを端的に表している。

電車で目の前にいる人を超え外部の人と通話するのは「無礼」

もう一点は、対面的な現実空間に遠隔的な情報空間が重なり合うことによる問題である。公共交通における「儀礼的無関心」は、たんなる無視ではなく、他人同士として適切な距離を維持するための「儀礼」として無関心を装うことであった。しかし、モバイルメディアの向こうにいる人を優先して通話をすれば、車内にいる人間はおきざりにされる。その結果、情報空間の顕名的・個人的関係を重視した、交通空間の匿名的・公共的関係に対する「儀礼なき無視」として認識される。

しかも、電車内での携帯電話の通話の場合、こちらの利用者の声は聞こえるが、電話の向こう側がどんな人なのかはわからない。話している内容も、多くの場合、聞こえない。通話の声すら迷惑であるのに、片方のみの内容は雑音でしかないだろう。また、見知らぬ人のプライベートな内容が耳に入ることによる気まずさもある。そうした個人情報が耳に入れば、見知らぬ他者としての心理的な距離がややとりにくくなる。

もちろん通話をする人にとっては、個人的な関係や都合で通話せざるをえない事情があるかもしれない。その意味では、車内とは別の関係と空間の規範にしたがった行為ともいえるだろう。たとえば、車内での通話時に顔をそむけて、口元を手でかくして通話する人びと(やそうした様子を描いたマナーポスター)が存在している。

「歩きスマホ」も現実ではなく情報空間に没入した「迷惑行為」

このような身振りは、現実空間で共在する他者に「本当はいけないのですよね、すいません」と言い訳しつつ、情報空間を通じて不在の他者と通話を続けざるをえないジレンマを表現している。また、こうした通話のしぐさは、「無視しているわけではないのですよ」ということを暗に示さなければならない儀礼的秩序が電車のなかに存在することを裏付けている。

田中大介『電車で怒られた!「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(光文社新書)
田中大介『電車で怒られた!「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(光文社新書)

2010年代後半以降に大きな問題となった「ながら操作」、あるいは「歩きスマホ」という行為も、現実空間の認識がおろそかになるほど情報空間に没入した「迷惑行為」となる。こうなると端的に衝突や転落の危険があることはもちろんのこと、他人同士としての「あえての無関心」ではなく、モバイルメディアに集中しすぎた、周囲の状況への「ただの無関心」であることの不快さもでてくる。

こうして情報空間と現実空間が重なり、「視覚の秩序/聴覚の秩序」、および「匿名的・公共的関係の規範/顕名的・個人的関係の規範」の区別が混線する(図表4)。つまり、モバイルメディアは、「うるさくて無視された感じがする」がゆえに、「迷惑」、「不快」、「危険」と感じられるようになったのではないだろうか。