高齢の夫婦と4人の子供を誘拐した事件

26歳のチャウは、多くの人々にとって世界の相互接続性の象徴である米国の出身だった。彼は、北センチネル島と“残りの世界”を隔てる見えない境界線をまたいだ最初の人間ではなく、そのために命を落とした最初の人間でもなかった。

それでもチャウを特異な存在にしたのは、自分の意志で境界線を越え、世界中の無数の人々にとってきわめて重要なもの――彼の信仰――を反対側にもたらそうとしたことだった。

チャウに先立って北センチネル島に到着した人々は、だいたいは偶然であるか――1867年のニネヴェ号、1977年のルスリー号、1981年のプリムローズ号といった大型船はみな岩礁に座礁したものだ――人間の差異の“証拠(エビデンス)”を無理に手に入れようとする有害な目的のどちらかだった。

後者の例としては、英国の海軍将校モーリス・ヴィダル・ポートマンらが1880年にこの島に渡り、高齢の夫婦と4人の子供を誘拐した事件が挙げられる。

この遠征は人類学的な調査が目的だったようだ。ポートマンらは誘拐した島民を50キロほど離れたアンダマン・ニコバル諸島の首都ポート・ブレアに連れて行ったが、免疫のない大人はすぐに病気にかかって死亡した。

インドとミャンマーの間のベンガル湾の群島、アンダマン諸島への飛行機からの眺め
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よそ者が強く拒絶されるようになった

ポートマンらは、誘拐した子供たちを贈り物とともに急いで島に返した。しかし、子供たちが島に病気をもたらし、ほかの島民が犠牲になった可能性は十分に考えられる。

それ以来、よそ者が強く拒絶されるようになったのは驚くに当たらない。その他の偶然の遭遇としては、近くの流刑地から逃亡した囚人とふたりの漁師が、それぞれ1896年と2006年に、殺害されたか、殺害を強く疑われている事件がある。

接触を持った人や生還した人の話を通して、外部の世界は北センチネル島の島民(センチネル族)に関する情報を集めた。

たとえば、農業の代わりに狩猟採集を行っているという話から、“石器時代”の人間のような生活だと言われることがあったが、実際はそうではなく、難破船の金属から矢をつくるなど、近代的な素材を生産的に再利用しているらしい。

また、小型で細いカヌーのような舟もつくっており、パント舟(訳注:両端が方形の浅い平底の小舟)の要領で長い竿を使ってこの舟を漕ぎ、槍やナイフ、弓矢を運んでいる。衣服は、腰ベルトか紐、ネックレス、ヘッドバンドくらいだ。差し掛け小屋、生はちみつ、野生の果物、漁網、木製のバケツが、インド国立人類学研究所のトリロクナス・パンディットによって確認されている。