小山評定で起きたこと

翌25日、いよいよ上杉征伐軍の大名たち全員が参加しての評定が開かれました。

遠征軍の各陣営には、それぞれのルートで三成挙兵の情報が、すでにもたらされていました。彼らは、西軍は豊臣家そのものであり、三成と戦うことが秀頼に刃を向けることになるのではないか、と大きな不安を抱えていました。

しかし、評定の冒頭で正則が、

「私は家康殿にお味方いたします。このたびの三成の挙兵は、豊臣家の名を借りた三成の天下取りの企みに他ならないから──」

と、大声で切り出しました。

効果は絶大でした。彼は秀吉の子飼い中の子飼いの大名だったからです。その正則が三成と戦うと言っているのですから、もはや諸大名は何も恐れる必要はありません。

万一、正則が発言をためらうようであれば、家康はそれまでに懐柔してあった諸侯に順次、発言させ、場の雰囲気を徳川家擁護、三成に対する徹底抗戦に、向ける手はずも整えていたに違いありません。

つづいて、数人の諸侯が異口同音に発言します。

会津征伐軍が、三成らを中心とした西軍と対峙たいじする東軍へと変わったのです。

場を盛り上げた予想外の武将

このとき、突如立ち上がって、予想外の発言をした大名がいました。

遠江掛川6万9000石の城主・山内一豊です。

山内一豊像
山内一豊像(画像=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

一豊は、賢妻のおかげで、のちに土佐20万石を手に入れたと、やっかまれることになりますが、真の功績はこの小山評定における、一豊自身の次の発言によりました。

「東海道を馳せのぼるには、城と兵糧が必要でありましょう。そこで私は、居城の掛川城を内府殿に明け渡し、進上申し上げる」

これを聞いた諸侯は、みな一様にこの発言の重要さに、ひと呼吸遅れて気づき、東海道筋に城を持つ大名たちは、「私の城も進上申し上げる」「私の城も――」と、次々に名乗りを上げました。

家康は一豊のひと言によって、労せずして海道筋の主要な城を、傘下に収めることができたのです。

これらの城は、もとはといえば秀吉が、関東へ移した家康が大坂に攻め寄せてくる事態への備えとして、配置したものでした。

あの世の秀吉がこの様子を見ていたら、開いた口がふさがらなかったことでしょう。

勝ち馬に乗るなら積極的に

また、「わが城に兵糧をつけて家康に進上する」というアイデアを最初に思いついたのは、実は発言者の一豊ではなく、このとき掛川城の隣の浜松城主をつとめていた堀尾忠氏でした。

この日、評定へ出かける道すがら、忠氏が「自分は、わが城に兵糧をつけて内府殿に進上し、人質を吉田の城に入れ、自分は合戦に先陣しようと思う」と言うと、それを感心しながら聞いていた一豊が、それをそのまま先に、評定の場で提案したというわけです。

いかなる急場、土壇場にあろうとも、図太く何かをつかんで、あるいはわざわいを転じて福となす人物がいるものです。

同じ勝ち馬に乗ろうとするにしても、積極的か否かで、成果は大きく違ってくるという事実を、山内一豊は、われわれに教えてくれているともいえるでしょう。