家康がターゲットにしたある武将

家康は、明日の軍議で、開口一番、諸将の去就を問う心づもりでいました。

「私はこれから三成勢と戦うが、おのおの方は、それぞれの事情があるだろう。家康につくか、三成につくかは、おのおの方次第だ。三成方につきたいと思う方は、直ちに国許へ帰って戦支度をするがよい。邪魔だてはいたさぬ」

と。このとき、場の空気は、家康の発言に対して、次に誰がどのような発言をするか、で決まってしまいます。

もし、最初の発言者が、

「では……、申し訳ありませんが、わたしは国許に帰らせていただきます」

などと言おうものなら、諸将はたちまち不戦論に傾き、その瞬間に会津征伐軍、すなわち東軍は瓦解がかいするでしょう。

しかし、家康のしぶとさは、「ものごとには本音と建て前がある」とばかりに、感情を利用して誘うポイントを、福島正則に絞ることで、活路を見出そうとした点にありました。

正則は少年時代から、秀吉の許で育てられ、父のような存在である秀吉の賛辞を得たい一心で、懸命に働き、賤ヶ岳の戦いでは“七本槍”の筆頭にあげられるまでになった人物です。

三成によって秀吉に讒言されたとの恨みを持ち、その私怨を、まんまと家康に利用されてしまったというわけです。

秀吉恩顧の武将たちの事情

実際に正則を口説いたのは、家康派の黒田長政でした。

竹中重治(通称・半兵衛と並ぶ、豊臣政権創設期の軍師・黒田孝高よしたか(通称・官兵衛)の嫡男である長政は、正則と同じ武断派ですが、父の官兵衛同様、知略にも優れていました。

根回し役を引き受けた長政は、

「三成の挙兵は、豊臣家の名を借りた自分の天下取りだ。騙されてはいけない」

と、正則の「三成憎し」の気持ちを刺激し、三成との対決への決意を迫ります。

「明日の評定で、そなたが諸侯に先駆けて、内府殿にお味方申し上げる、と大声で切り出せば、迷う方々の決意も固まるだろう」

正則に、どの程度の時代認識と理解があったかは疑わしいのですが、もしこの戦いで、文治派の三成が勝利すれば、武断派の自分の、将来の目がなくなることは理解していたようです。

長政は、この正則説得の成功によって、後日、いちはやく筑前50万2400余石を家康から与えられています。