児童虐待防止法を成立させ、「日本家族法の父」と呼ばれる

重遠は象牙ぞうげの塔に籠もるタイプではなかった。民法の大家として、民法改正、児童虐待防止法の制定などに関わっている。重遠は児童虐待防止法という名称にこだわった。児童愛護法のような曖昧あいまいな名称を避けて現実を直視すべきだと説いたのである(どこかの国の政治家サンたちに聞かせたい話だ)。

また、1923年の関東大震災では、焼け跡にバラックを建てて住み着いてしまう被災者の立ち退き問題が起こると、牧野英一らと論争を戦わせた。現実的な落とし所として借地借家調停法が活用され、重遠が日本橋区、牧野が京橋区、鳩山秀夫が小石川区・牛込区などを担当した。2024年1月に起こった能登半島地震で、法的な問題から倒壊家屋の撤去が進んでいないことが問題になっているが、重遠や牧野らがいればその打開に向けて行動していたに違いない。

穂積重遠『家族法の諸問題 穂積先生追悼論文集』1952年より
穂積重遠『家族法の諸問題 穂積先生追悼論文集』1952年より(国立国会図書館ウェブサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

明大女子専門部を設立し、女学生から「イノシシ」と親しまれる

1928年、重遠は松本重敏らと明治大学法学部に女子専門部を創設した。

重遠は民法・家族法の大家であり、その改正にも携わる。民法は家族や婦人のあり方に大きな影響を及ぼすのに、それを男性だけで行って、女性の参加を求めないのはおかしい。女性の法律家をつくるべきだという考え方が重遠にはあった。

弁護士法改正の折に、女性にも弁護士資格を認める案が出され、女子に法律を教える場が必要だとの気運が高まった結果、女子部の創設に繋がったのだという。重遠は背中を丸めて足早に歩くので、女学生たちから「イノシシ」というニックネームを与えられた。

1933年に弁護士法が改正され、1936年には実際に女性が高等文官試験司法科を受験することが可能となった。17人の女性(うち13人が明大女子部出身)が受験に参加したが、不合格。3年目の1938年になってようやく3人が合格を果たした。あまり書くと、ドラマ「虎に翼」のネタバレだと怒られてしまいそうなので、この話はこのあたりでやめておこう。

また、「虎に翼」に関連があるところだと、1934年に帝人事件が起こり、大学で同期だった大久保偵次ていじ・大蔵省銀行局長を弁護するために、重遠は1937年に特別弁護人として東京地裁の法廷に立っている(冒頭で述べたように、「虎に翼」の「共亜事件」では、ヒロインの父親が逮捕されたが、ヒロインのモデル・三淵嘉子の父親は逮捕されていない)。その重遠が1949年に最高裁判所判事に任官されているのは、皮肉というほかない。