妻・彰子の「月のさわりがない」と妊娠に気づいた一条天皇
これは、一条天皇の言葉である。すでに、寵愛していた故定子皇后が3人も子どもを産んでおり、経験豊かな天皇は、彰子の様子からわかったのであろう。それにしても、夫婦の会話として、なかなか興味深い。彰子の父親である道長が知ったのは、愛人の一人、彰子の女房大輔から耳打ちされたときであり、天皇より遅い。
彰子は、妊娠5カ月目の4月、内裏から上東門第(土御門第)に退出する。着帯のことなどをおこなったうえで、6月14日にはまた参内し、7月16日には内裏から退出する。8カ月になっていた。上東門第では、出産の準備がおこなわれ、予定日近くになると、女房たちも大勢集まる。紫式部もその一人。以後、詳しい記録が『紫式部日記』に記されている。
9月9日、彰子は産気づくと、天皇の命令によって造られていた白木の御帳に替えられ、畳や垂れ絹なども白一色の調度の中に移る。それから、本格的な出産劇である。
出産時は僧侶の祈祷がうるさく、産婦のいきみ声が紛れたか
山という山、寺という寺を探し求めて大勢呼び集められた効験ある祈禱僧が、声を張り上げ祈禱する。世間に名の知られた陰陽師も、呪文を唱える。外では悪霊を払うために、散米(魔除けのために米を撒くこと)をする。悪霊を呼び移す「よりまし(祈禱師が霊を一時的に乗り移らせるための媒体)」の口を借り、悪霊たちがわめきたてる。女房たちは、一人のこらず参上して、狭い場所にぎっしり詰め込まれ、声を出し、祈る。こう書いただけで、喧騒が伝わってきそうである。なんとも、にぎにぎしい、出産イベントが開幕したのである。
当時の出産は、天皇の子どもたちの場合でなくても、僧侶や陰陽師が祈っている史料は多いから、けっこううるさかったようである。当の産婦は、いきみも他の人々には聞かれず、かえって安心していたのかもしれない。