そこで父親を説得しようと試みるが、数ヶ月かかっても父親は首を縦に振らない。そこで田中さんは、兄が帰省しているときに相談。田中さんの生き方を理解してくれた兄は、テコでも動きそうになかった両親の説得に成功。しぶしぶながらも両親は、「母親の介護は続けること」「卒業後は実家へ戻ること」を条件に、短大進学と1人暮らしを許してくれた。

実家から車で2時間ほどのところで1人暮らしをし始めた田中さんは、夏や冬、春の長い休みには必ず実家に帰省し、母親の介護に勤んだ。その頃の母親は、自分のことは自分ででき、日常生活は送れていたが、体調に波があり、体調が良くないときは寝たきりになってしまう。せん妄などの精神症状がひどく、転倒などにより怪我をすることも多かったため、仕事をしている父親1人では看られず、田中さんが帰るしかなかったのだ。

結婚と出産

短大進学とともに家を出た田中さんは、二度と実家に戻る気はなかった。1年浪人し、大学に1年通った後に短大に入り直したため、22歳で短大を卒業すると、1人暮らしを続けながら保育士として働き始める。両親には「約束が違う!」と騒がれたが、お盆や年末年始の長期休みには、母親の介護のために帰省することで許してもらった。

やがて26歳になると、経済学部時代に知り合い、交際を続けてきた相手にプロポーズされた。

「それ以前も彼氏ができたことはありましたが、いつも両親の目が気になり、学生時代に知り合ったその彼氏と付き合うまでは、まともな交際をしたことがありませんでした。両親に悟られないようにしていても、母は察知能力がすごくて、ちょっと帰りが遅くなると不良呼ばわりされたり、無視されたり、食事を作ってくれなかったりという日が続き、『そんなことにうつつを抜かしているから、お兄ちゃんみたいな成績が取れないんだよ!』とも言われました」

田中さんは両親に、交際相手にプロポーズされたこと、結婚後は相手の生まれ故郷である北関東へ行き、実家で義両親と暮らすということを話した。すると両親は、またしても大反対。母親は、「私はあんたを一生手元に置いて、面倒を見てもらうことが理想なの。別れなさい! お母さんが相手を見つけてきてあげるから!」と言い、父親は、「パーキンソン病を患っているお母さんの近くに住んで、時々面倒を見に来てほしい」と母親に賛同する。

「このときも、1年ほどかけて説得しました。母が特に反対していて、北海道から出ること、自営の家で同居することに大反対でした。母を説得するために、初めて母を車椅子に乗せて、2人きりで1泊旅行に行き、じっくりと話をしましたが、『あんたの結婚相手は私が決める』『今の人とは別れなさい』の一点張り。結局私が父を説得し、父が母を説得した感じです」

田中さんは、ようやく結婚にこぎつけ、北関東にある夫の実家に移り住んだ。幸せな結婚生活が待っているかと思いきや、非情にも次なる試練が待ち受けていた。

結婚前から、夫の両親がある宗教に入信していることは知っていた。そのため夫とよく話し合い、「結婚しても、私は宗教活動には参加しない」という約束を取り付けていた。それなのに、いざ同居が始まると、義父がその宗教の支部長を務めているという新情報を知らされ、嫁である田中さんにも毎月の集会や修行への参加を強要されたのだ。

そんな中、田中さんは、第1子を妊娠。里帰り出産を決断して実家に帰ると、もともと過干渉だった母親だけでなく、父親までもがいろいろ口出ししてくるようになり、身体的にも精神的にも休まる暇がなかった。

「特に母は、自分がやってきた子育てが間違っていないと信じていたので、例えば、『泣いても抱き癖がつくから絶対に抱っこしちゃダメ!』『保育園には入れず、幼稚園に入園できる年齢になるまで仕事はしてはいけない!』などと言い、さらに、『男の子だったらいい。女の子だったらあちらの家に申し訳ない』などいろいろ好き勝手なことを言われ、ストレスが溜まりました」

だが、里帰り出産を選んだことを、後悔することばかりではなかった。母親は田中さんに陣痛が来たとき、分娩室に行くまでずっと付き添ってくれたため、心細い思いをせずに済んだのだ。とはいえ、母親は田中さんの隣のベッドで叫びながら陣痛に耐える女性にあからさまに嫌な顔をし、ついに「うるさい!」と言ってしまったときは、田中さんはその女性に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。