信繁の再起のチャンスは豊臣方から出陣要請が来た冬の陣

信繁の元に大坂城から使者がやって来て、豊臣方に加勢することを要請したのです。信繁がこれを受け入れたことは、これまでの経緯からしても、言うまでもありません。家族を伴い、九度山を脱け出し、大坂に向かう信繁。信繁は戦において、豊臣方は積極的に徳川方を攻撃すべしとの主張をしたとされます。

しかし、軍議の結果は籠城策が採用され、信繁の策は退けられました。信繁は、大坂冬の陣(1614年)にて、とりでを築きます。大坂城の南平野口の外堀の外に築かれた砦は、三方を空堀に囲まれ、三重の柵が設けられていました(要所にはやぐらもあり)。これが有名な「真田丸」です。

現在の大阪城天守閣
撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の大阪城天守閣

大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」を築いて奮戦

真田丸は単独で敵勢を迎撃できる「要塞」だったとも言われています。空堀の斜面には乱杭らんぐい逆茂木さかもぎが備えられ、敵勢の行く手を阻んだようです。真田丸(砦)の周囲には、高い塀があり、櫓が築かれていました。塀の内側には、兵士が往来できる「武者走り」もありました。塀の内側は2層階式であり、1階と2階から鉄砲隊が敵勢を狙い撃ちしたのでした。真田丸の規模については諸説ありますが、一説によると「東西約280メートル、南北約270メートル」とされます。

砦というよりは、1つの城ではないかという声もあるほどです。

迫りくる徳川方の軍勢に鉄砲を浴びせかける真田部隊。押し合いへし合いし、混乱状態の敵軍に更なる攻撃を仕掛ける真田軍。徳川方の多くの将兵が戦死しました。力攻めのを悟った徳川方は、豊臣家と和議を結びます。

しかし、講和成立後、大坂城の堀は埋め立てられ、城は徳川方により無力化されます。豊臣秀頼が牢人ろうにん衆を解雇し、城を出れば、次の戦争は避けられたでしょうが、そうはならず。大坂夏の陣(1615年)が勃発するのです。