信繁の兄・信幸は、妻が本多忠勝の娘だったから徳川側に?

一方、信繁の兄・信幸は、ここで家康を裏切るのも不義ではないかと反対の意志を表明。ちなみに、信幸も秀吉在世中に、従五位下に任命され「豊臣」姓を与えられていました。が、信繁と異なる点は、徳川重臣・本多忠勝の娘(小松姫)を娶っていたことです。信幸が最終的に徳川方(東軍)に付いたのは、この点も大きいのではないでしょうか(大谷吉継は西軍に加勢)。

犬伏での密談の結果、昌幸と信繁は三成方、信幸は徳川方に味方することになったのです。これは「犬伏の別れ」と言われますが、東軍・西軍どちらが勝っても真田家は存続することができます。悲しい別れではありますが、戦国乱世を遊泳する巧みな知恵でもありました。

しかも昌幸は自らの去就を、なかなか三成に明らかにしなかったとされます。それは、三成方に味方した場合、どのような恩賞があるかを見極めようとしていたからでしょう。三成は8月上旬の手紙において、昌幸に信濃や甲斐国を与えることを約束しますが、それでやっと昌幸は去就を明確にしたのでした。

「真田昌幸(武藤喜兵衛)像」
「真田昌幸(武藤喜兵衛)像」(画像=真田幸正氏所蔵/東京大学史料編纂所データベース/PD-Japan/Wikimedia Commons

関ヶ原の敗戦後、父と信繁は高野山麓の九度山へ追放された

その後、ご存じのように、天下分け目の関ヶ原の合戦は、徳川方の勝利に終わります。戦後、家康は昌幸・信繁親子を死罪にする腹を固めていたとされますが、徳川方に付いた信幸の助命嘆願もあり、高野山への追放処分となるのです。

慶長5年(1600)12月、昌幸らは居城がある信州上田を発し、配流先である高野山に向かいます。高野山麓の九度山に屋敷を構え、蟄居ちっきょすることになった真田親子。監視の目はありつつも、ある程度の自由行動は認められていたと言われています。だが、知行地は没収されていたので、生活は困窮を極めたとのこと。昌幸は人を介して家康に赦免の嘆願をしていましたが、家康はついに昌幸を許すことはありませんでした。

晩年の昌幸は病がちになり、慶長16年(1611)6月、65歳で世を去ります。秀吉から「表裏比興ひょうりひこうの者」と評された知将・昌幸。その晩年は哀れなものでした。その父の姿を見て、次男・信繁は「徳川憎し」の想いを一層深めたのではないでしょうか。

信繁は配流地において子供にも恵まれていますが、生活の困苦により、年老い、病も得て、歯も抜け、ひげも黒い箇所ところはあまりないという悲惨なありさまとなっていたようです。本来ならば高野山麓で朽ち果ててもおかしくはなかった信繁ですが、徳川氏と豊臣氏(秀頼)との対立が深まったおかげで、再起の芽が出てきます。