大坂の陣で家康を苦しめた真田信繁(幸村)の生い立ち
戦国武将・真田信繁(幸村)は、大坂夏の陣(1615年)において、敵である徳川方の本陣に迫り、徳川家康を一時、危機に陥れたことで有名です。信繁とはどのような武将だったのでしょうか。そして、なぜ豊臣方に付いて、徳川家康と対決することになったのでしょうか。
まず、信繁が生まれたのは、永禄10年(1567)のこととされます。永禄10年というと、松永久秀と三好三人衆との紛争により、東大寺大仏殿が焼失した年であります。また、甲斐国の武田信玄の嫡男・義信が病死した年でもありました。翌年(1568年)は、織田信長が足利義昭を擁し上洛を開始、義昭を室町幕府15代将軍に就けることに成功した年です。いまだ戦国乱世の帰趨は定まり難く、混沌としていた永禄10年。信繁は、甲斐の武田家に仕える真田昌幸の次男として生を受けます。母は山手殿。昌幸と山手殿の間には、永禄9年(1566)には、長男・信幸が誕生しています。
真田親子は、自らの家を生き残らせるために、苦渋の決断をすることになりますが、それが、関ヶ原合戦(1600年)前の「犬伏の別れ」です。家康は会津の上杉景勝打倒のため、同年6月16日、大坂を出陣。ところがその隙を突くように、家康に敵対する石田三成方(西軍)が家康を弾劾する書状を諸大名に発給、家康打倒をもくろむのでした。7月25日、家康は下野国(栃木県)小山で諸将と評定し、西軍と決戦に及ぶことを決断。会津征伐を中止し、後に西方に向かうことになります。
兄が徳川側、父と弟が豊臣側について一家全滅を回避した
真田昌幸・信幸・信繁らは、家康軍と合流するため、宇都宮に向かっていましたが、下野の犬伏に着陣した夜、三成方が発した家康弾劾文が届くのです。このまま家康軍に合流し、徳川に加勢するか。それとも三成方に味方するか。真田親子の密談が始まります。父・昌幸は三成方に付くことを表明し、次男・信繁はそれに賛成したと言われます。
信繁は、かつて、豊臣秀吉の人質として大坂に送られたことがありました。しかし、決して冷遇されたわけではありません。秀吉の家臣・大谷吉継の娘との婚姻。また、文禄3年(1594)11月、従五位下に叙任され「豊臣」姓も与えられていたことから、秀吉に気に入られ、厚遇されていたことがうかがえます。
当時、信繁は大名ではありませんでした。それなのに、先述のような厚遇。信繁に、秀吉(豊臣政権)への強い忠義心が存在したとしても不思議ではないでしょう。父・昌幸の「三成方に付く」との言葉に、信繁がすぐさま賛同したとの逸話もうなずけます。
信繁の兄・信幸は、妻が本多忠勝の娘だったから徳川側に?
一方、信繁の兄・信幸は、ここで家康を裏切るのも不義ではないかと反対の意志を表明。ちなみに、信幸も秀吉在世中に、従五位下に任命され「豊臣」姓を与えられていました。が、信繁と異なる点は、徳川重臣・本多忠勝の娘(小松姫)を娶っていたことです。信幸が最終的に徳川方(東軍)に付いたのは、この点も大きいのではないでしょうか(大谷吉継は西軍に加勢)。
犬伏での密談の結果、昌幸と信繁は三成方、信幸は徳川方に味方することになったのです。これは「犬伏の別れ」と言われますが、東軍・西軍どちらが勝っても真田家は存続することができます。悲しい別れではありますが、戦国乱世を遊泳する巧みな知恵でもありました。
しかも昌幸は自らの去就を、なかなか三成に明らかにしなかったとされます。それは、三成方に味方した場合、どのような恩賞があるかを見極めようとしていたからでしょう。三成は8月上旬の手紙において、昌幸に信濃や甲斐国を与えることを約束しますが、それでやっと昌幸は去就を明確にしたのでした。
関ヶ原の敗戦後、父と信繁は高野山麓の九度山へ追放された
その後、ご存じのように、天下分け目の関ヶ原の合戦は、徳川方の勝利に終わります。戦後、家康は昌幸・信繁親子を死罪にする腹を固めていたとされますが、徳川方に付いた信幸の助命嘆願もあり、高野山への追放処分となるのです。
慶長5年(1600)12月、昌幸らは居城がある信州上田を発し、配流先である高野山に向かいます。高野山麓の九度山に屋敷を構え、蟄居することになった真田親子。監視の目はありつつも、ある程度の自由行動は認められていたと言われています。だが、知行地は没収されていたので、生活は困窮を極めたとのこと。昌幸は人を介して家康に赦免の嘆願をしていましたが、家康はついに昌幸を許すことはありませんでした。
晩年の昌幸は病がちになり、慶長16年(1611)6月、65歳で世を去ります。秀吉から「表裏比興の者」と評された知将・昌幸。その晩年は哀れなものでした。その父の姿を見て、次男・信繁は「徳川憎し」の想いを一層深めたのではないでしょうか。
信繁は配流地において子供にも恵まれていますが、生活の困苦により、年老い、病も得て、歯も抜け、髭も黒い箇所ところはあまりないという悲惨なありさまとなっていたようです。本来ならば高野山麓で朽ち果ててもおかしくはなかった信繁ですが、徳川氏と豊臣氏(秀頼)との対立が深まったおかげで、再起の芽が出てきます。
信繁の再起のチャンスは豊臣方から出陣要請が来た冬の陣
信繁の元に大坂城から使者がやって来て、豊臣方に加勢することを要請したのです。信繁がこれを受け入れたことは、これまでの経緯からしても、言うまでもありません。家族を伴い、九度山を脱け出し、大坂に向かう信繁。信繁は戦において、豊臣方は積極的に徳川方を攻撃すべしとの主張をしたとされます。
しかし、軍議の結果は籠城策が採用され、信繁の策は退けられました。信繁は、大坂冬の陣(1614年)にて、砦を築きます。大坂城の南平野口の外堀の外に築かれた砦は、三方を空堀に囲まれ、三重の柵が設けられていました(要所には櫓もあり)。これが有名な「真田丸」です。
大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」を築いて奮戦
真田丸は単独で敵勢を迎撃できる「要塞」だったとも言われています。空堀の斜面には乱杭や逆茂木が備えられ、敵勢の行く手を阻んだようです。真田丸(砦)の周囲には、高い塀があり、櫓が築かれていました。塀の内側には、兵士が往来できる「武者走り」もありました。塀の内側は2層階式であり、1階と2階から鉄砲隊が敵勢を狙い撃ちしたのでした。真田丸の規模については諸説ありますが、一説によると「東西約280メートル、南北約270メートル」とされます。
砦というよりは、1つの城ではないかという声もあるほどです。
迫りくる徳川方の軍勢に鉄砲を浴びせかける真田部隊。押し合いへし合いし、混乱状態の敵軍に更なる攻撃を仕掛ける真田軍。徳川方の多くの将兵が戦死しました。力攻めの愚を悟った徳川方は、豊臣家と和議を結びます。
しかし、講和成立後、大坂城の堀は埋め立てられ、城は徳川方により無力化されます。豊臣秀頼が牢人衆を解雇し、城を出れば、次の戦争は避けられたでしょうが、そうはならず。大坂夏の陣(1615年)が勃発するのです。
大坂夏の陣では家康の本陣を襲い、家康は切腹を覚悟した
信繁は茶臼山に陣取り、毛利勝永隊と共に、茶臼山にある家康の本陣を急襲します。勇敢に突撃を繰り返す真田軍。家康の旗本勢は後退し、家康の馬標や旗も倒されるという混乱振り。家康の周囲にはごく少数の者しかおらず、一説によると、家康も一時は切腹を覚悟したとも言われます。何度も突撃を繰り返し、徳川軍を翻弄した真田軍ですが、家康を捕捉・打倒することはかなわず、数で優る徳川方が勢いを盛り返していきました。信繁は、徳川方の西尾仁左衛門により討たれ、49歳の生涯を閉じます。
信繁は最終決戦に際し、豊臣秀頼の出馬を望んだとされます。秀頼が出てくれば、豊臣方に士気は上がる。そして一気に家康や秀忠の陣に攻め掛かり、戦いの決着を付ける。それが信繁の戦略だったようですが、秀頼出馬は淀殿らの反対に遭い、実現せず。信繁の作戦が絶対に成功したかは分かりませんが、秀頼が出馬せずとも、真田軍らが徳川方をあそこまで蹴散らしたのだから、やって見る価値は十分あったでしょう。
秀頼が出張って、豊臣勢が一丸となって、家康の陣を襲えば、家康を討ち取れたかもしれません。信繁の奮戦は敵方をして「真田日本一の兵」(薩摩島津氏)、「真田・後藤又兵衛手柄共、古今無双次第」(細川忠興)と言わしめました。秀頼が出馬していたら、信繁の声価はさらに高まった可能性があります。
※参考文献
・平山優『真田三代』(PHP研究所)2011
・『歴史読本』編集部『ここまでわかった 大坂の陣と豊臣秀頼』(KADOKAWA)2015、
・山下久猛「第21回【大阪明星学園/心眼寺】最新の研究で明らかになった真田丸の全貌」(文春オンライン、2016年11月26日)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス)2022