秀頼は実子ではないという説も否定しきれない

秀吉が淀殿の妊娠を知ったのは、彼女が妊娠7カ月の頃。妊娠しているかどうかは、それよりも早くに分かるはずであり、「吉報」ならば、もっと早く知らされても良いはず。それが、なぜこのように遅くなったのかは、謎です。また、淀殿の妊娠を知った時の秀吉の書状の文面がどこか冷めていると感じるのは、筆者だけでしょうか。「めでたい」とは書いていますが「太閤子は、鶴松である」との文言も見え、今度生まれてくる子は「自分の子ではない」と言っているようにも聞こえます。

拾(秀頼)が生まれたと聞いた時も、秀吉はすぐに大坂には戻っていません(母・大政所の危篤の報を得た時は、秀吉は大至急戻っています)。鶴松や秀頼が、秀吉の「実子」であったのか否か。そのことを明確にするのはなかなか困難とは言えます。が、実子でない可能性も、以上、見てきたような理由から、全く根拠のないものではないと思うのです。

伝・花野光明作「豊臣秀頼像」(江戸時代、東京藝術大学所蔵、PD-Japan/Wikimedia Commons)
伝・花野光明作「豊臣秀頼像」(江戸時代、東京藝術大学所蔵、PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉は秀頼を溺愛したが息子が5歳のときに死去した

とはいえ、幼い秀頼を秀吉が溺愛したのもまた事実。拾(秀頼の幼名)宛の書状が残されており、その中には「やがてやがて参って、(拾の)口を吸いたい。しかし、私が留守の間に、他人に口を吸わせていることだろう」(1595年1月2日)との文言があります。拾に早く接吻したいとする秀吉の感情。また、秀吉は臨終間際(1598年8月5日。死去は8月18日)に「返す返す、秀頼のこと、頼み申し候」と徳川家康ら豊臣家重臣5人に手紙を残したことはよく知られています。

「実子でないのに、ここまでの感情になることはあるだろうか」との疑問を持つ人もいるでしょう。しかし、秀頼の誕生前にも、秀吉は甥の秀次や豪姫(前田利家の四女)らを養子にしています(秀次は後に秀吉の怒りをかい切腹に追い込まれますが、豪姫は可愛がられたと言われます)。筆者は、たとえ実子でなくとも、秀吉がこのような想いになることは十分考えられると思うのです。実の子でなくとも、養子や里子でも、十分な愛情を持って、可愛がるという人は、今も昔もいるからです。

※参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965)
・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。