秀頼の誕生日から逆算すると、受胎時に秀吉はいなかった?

鶴松は、秀吉53歳の時の子、秀頼は57歳の時の子でした。多くの女性に囲まれていて、それまで全く子ができなかったのが、50代になって急に子宝に恵まれる。もちろん、世の中さまざまなことがありますので、そういったことを一概に否定はできませんが、不思議といえば不思議です(鶴松以前に、秀吉には男子・秀勝が生まれていたが夭折していたとの説もある。一方で秀勝は実子ではないとの説もあり)。

また、淀殿が秀頼を受胎した際に、秀吉と淀殿は一つどころにいなかったとする見解もあります。歴史学者・服部英雄(九州大学名誉教授)によると、秀頼の受胎想定日は「文禄元年(1592)11月4日頃」(秀頼は1593年8月3日に誕生)。ところが、文禄元年10月1日には、秀吉は大坂から九州へ向けて出発。10月30日に博多到着、11月5日には、肥前(佐賀県)名護屋にいたのです。淀殿が秀吉と共に九州に下向したのなら話は別だが、一般的にはこの時、淀殿は大坂城にいたとされます(淀殿は九州に行ったとする説もあり)。よって、淀殿は秀吉の子(秀頼)を妊娠できるはずはないというのです。

大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像
写真=iStock.com/coward_lion
大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像

秀吉は正室への手紙の中で本音を漏らしたのか

文禄2年(1593)5月には、秀吉は淀殿の妊娠を知るのですが、その時、彼は正室・北政所に宛てて、次のような書状(同年5月22日付)を書いています。

「二の丸殿(淀殿)が懐妊したとのこと、めでたいことです。我々(秀吉と寧々)は、子供は欲しくないと思ってきた。太閤(秀吉)の子は、鶴松だが、既にこの世にはいない。(今度生まれてくる子は)二の丸殿一人の子で良いのではないか」

亡き鶴松の生母は、淀殿であるが、秀吉が「両人の御かか様(お母様)」というように、鶴松には「二人の母」がいました。一人は当然、淀殿。もう1人は「政かかさま」(北政所)、秀吉の正室でした。鶴松は生まれてすぐ生母・淀殿の手から引き離されて、北政所のもとで養育されたと言われます。前述の書状に話を戻すと、今度生まれて来る子は、そのようなことをせず、淀殿1人の子で良いのではないかと、秀吉は正室に言っているのです。