目立たない存在だが家康の正室となった秀吉の妹とは?
大河ドラマ「どうする家康」に、徳川家康(演・松本潤)の元に嫁ぐ旭(朝日)姫が登場してきました。演じるのは、俳優の山田真歩さんです。では、この旭姫とは、一体、どのような女性だったのでしょうか。姫は、あの天下人・豊臣秀吉の妹です。よって最初から「姫」(貴人の娘)だったわけではありません。
父は竹阿弥、母はなか(後の大政所)と言われています。秀吉は、農民・弥右衛門の子と言われていますので、旭姫は秀吉の異父妹ということになります。
旭が最初、嫁いでいたのは、尾張の地侍でした。この地侍は、佐治日向守と言いました。秀吉が、主君・信長の死後に、天下の覇権を握るほどの男にならなければ、旭もその夫・佐治日向守も共に平穏に暮らせたことでしょう。ところが、そうはなりませんでした。秀吉は、天正12年(1584)、徳川家康と対立。小牧・長久手で戦います。最終的には和睦しますが、家康を完全に臣従させるまでには至りませんでした。家康方は和睦の際に、家康次男の於義伊(後の結城秀康)や家臣の子息を、秀吉の人質に出しています。よって、秀吉優位の和睦であったことが分かるでしょう。
和睦の証しとして、秀吉は旭姫を徳川家に輿入れさせた
家康と秀吉の和睦交渉は、その後も続きますが、それを仲介したのが、織田信長の次男・信雄でした。実は、秀吉は小牧長久手の戦い以後も、家康を軍事力でもって討つつもりでした。天正13年(1585)11月には、来春(1586年の1月ごろ)に、家康を討つため出馬する旨を明かしています。それは、家康が新たな人質提出命令を拒んだからです。秀吉は、家康を恐れていなかったことが分かります。
小牧長久手においても、秀吉軍は10万の軍勢(諸説あり)だったとされますが、家康方は1万超。10万は誇大としても、圧倒的な軍事力の差はあったのです。ところが、秀吉の「家康征伐」は中止されます。天正13年11月29日に、大地震(天正大地震)が発生。畿内も大きな被害を受けたのです。よって「家康討伐」どころではなくなった訳です。以後、秀吉は強硬策ではなく、融和策でもって、家康に臨むことになります。
その象徴というべきなのが、秀吉の妹・旭の家康への輿入れです。旭を家康に嫁がせることに関しては、『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)に「関白(秀吉)、重て、信雄とはかられ」とありますので、秀吉は織田信雄と相談して決めたようです。