血のつながった者も容赦なく駒として使う秀吉の強引さ
その家康を、軍事力を使わずに、懐柔し、臣従させる(秀吉は、軍事力を使わず、損害を出さずに、家康を屈服させることを選択したと言えます)。そのための「道具」として、旭は使われたと言えましょう。再婚当時、旭は44歳でした。
秀吉の手法は、したたかで、強引かもしれませんが、秀吉はそれくらいのことは難なくやる男です。例えば、尾張国に、秀吉と血縁関係にある者(姉妹)がいると聞いた彼は、その姉妹(貧しい農民)に「然るべき待遇をしよう」と言って、強引に京都に呼び寄せたことがあります。姉妹は親族と共に、京都に出向いたようですが、彼女たちを待っていたのは死でした。姉妹は京都に入るとすぐに捕縛され、首を刎ねられたのです(宣教師ルイス・フロイス『日本史』)。
秀吉は「己の血統が賤しいことを打ち消そうとし」て、そのようなひどい所業をしたと考えられています。そのようなことを平気でした秀吉が「異父妹」の旭を離縁させて家康に嫁がせるくらいはやるでしょう。
切腹覚悟で大坂へ行った家康は「旭姫は助けて返せ」と言った
さて、家康と旭姫の祝言は、天正14年(1586)4月の予定でした。が、家康が秀吉に祝言の御礼言上のため遣わした使者が、秀吉の知らない人物だとして秀吉は立腹。秀吉は「(家康の重臣である)酒井忠次・本多忠勝・榊原康政の何れかを派遣するよう」に徳川方に求めます。秀吉の「無理難題」に家康は、和睦破棄を覚悟しますが、織田信雄の説得により、思いとどまります。秀吉への使者は、本多忠勝が遣わされることになりました。こうした紆余曲折があったため、旭姫の輿入れは、5月14日となったのでした。家康は秀吉の義理の弟となったのです。
秀吉は家康が上洛する決意を固めたと聞いて、母・大政所まで三河に下向させます。家康は上洛の際、「もし私が(上洛後)腹を切ったならば、大政所に腹を切らせよ。しかし、女房(旭)は助けて帰せ。家康は女房を殺して腹を切ったと言われたら、世間の聞こえも良くない。決して、女房に手を出すな」(『三河物語』)と家臣に言ったとされます。これは、旭への愛情から出た言葉ではなく、家康の名誉を傷付けないための方策と言えましょう。