旭には夫がいたのに離縁させられ無理やり嫁がされたか
家康は、天正7年(1579)に、正室・築山殿を討って以来、新たに正室を迎えていませんでした。秀吉と信雄はそこに目を付け、秀吉の妹・旭を家康の正室にせんとしたのです。家康を親族にしてしまい、強引に臣従させようとしたとも言えましょうか。旭には、前述のように佐治日向守という夫がいました。しかし、家康に嫁がせるために、離縁させられてしまいます。『改正三河後風土記』(江戸時代に編纂された歴史書。偽書説もあり信頼できる史料ではない)には、この間の経緯を次のように記します。
ある夜、秀吉は急に織田信雄らを呼び寄せます。そして「私は一計を思い付いた」というのです。秀吉が言う一計とは、家康を上洛させ臣従させるために、妹・旭を家康にめあわすというものでした。旭の夫・佐治日向守は「心厚き者なので、天下のために妻(旭)を返すべし」と言えば返すであろうと秀吉は言うのです。信雄らは、この秀吉の策に驚き、かつ感じ入ったといいます。秀吉の命令は、佐治に伝達されます。
佐治は「私がこの命令を拒んだならば、それは天下人民の苦しみを思わないのと同じ。しかし、妻を取り返されて、その後、どうして、他人に顔向けできようか」と言い、忽ちのうちに自害してしまったと『改正三河後風土記』は記します(自害ではなく、出家説もあり。ちなみに、旭の夫は佐治ではなく、織田家臣・副田吉成ではないかという説もあります)。
「人生50年」と言われた時代に44歳で家康と再婚
ちなみに『改正三河後風土記』は、旭の前半生についても簡単に記しており、父は織田家の同朋衆・竹阿弥であること、朝日村で生まれたので「朝日君」と呼ばれたことなどが記されています。秀吉が旭を夫と離縁させてまで家康に嫁がせたことについて「そこまでしたのは、秀吉が家康を恐れていたからだ」と思う人もいるかもしれません。
しかし、それは間違いで、前述のように、秀吉と家康には圧倒的な軍事力の差がありました。秀吉は家康を(多少の損害は出るにしても)軍事的に屈服させることは可能でした。秀吉に臣従するため上洛する際、家康は「私一人が腹を切って、多くの人の命を助ける」(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』)と重臣の前で決意表明しています。上洛しても、秀吉から急遽切腹を命じられる可能性を家康は意識していたと思われます。家康は弱い立場にあったのです。