本能寺の変は光秀の「単独」「突発的」犯行ではありえない

そして朝廷の計画には、将軍足利義昭も関わっていたという証拠が残っています。

本能寺の変直後の天正10年(1582)6月12日、光秀が紀伊国雑賀さいかの土橋重治に出した書状の原文が、三重大学の藤田達生教授によって発見されたのです。

足利義昭像素描、江戸時代
足利義昭像素描、江戸時代(画像=東京大学史料編纂所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

土橋重治は一貫して反信長派であり、本能寺の変が起こると、雑賀を反信長派で固め、高野山など近隣の寺院勢力にも決起を呼び掛けました。

重治は光秀に協力する書状を送り、その返信に次のような一文があるのです。

委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細あたわず候、
仰せの如く、いまだ申し通わず候ところに、
上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、しかれども
御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事、
(『本能寺の変』藤田達生)

この一文を見れば、本能寺の直後の重治の行動が義昭の命によるということは明らかです。

重治が義昭の指示によって行動していること、光秀もまた将軍の指示で上洛戦への協力を約束していることがわかります。

こうした史料が発見されたからには、クーデターが光秀の単独犯であり、しかも信長を恨んだための「突発的犯行」という解釈は、もはや成り立ちません。

安部 龍太郎(あべ・りゅうたろう)
小説家

1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。主な著作は、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』、『生きて候』、『天下布武』、『恋七夜』、『道誉と正成』、『下天を謀る』、『蒼き信長』、『レオン氏郷』など多数。大河小説『家康』(幻冬舎時代小説文庫)を連載中。