※本稿は、安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
公家五摂家の筆頭・近衛前久は信長に尽くしたが…
永禄11年(1568)、信長が上洛して以来、信長と朝廷とは利用し、利用される関係を続けてきましたが、朝廷を支配しようという信長の野望は、本能寺の変の直前ごろにはかなり現実味を帯びていました。
当然ながら、周囲は、信長の野望に対して危機感を持っていました。
その最たるものが、皇族と公家、幕府側の人間たちでしょう。
信長が革新派だとすれば、いわば守旧派です。そして、その代表が、五摂家筆頭の近衛家の長男である近衛前久でした。
前久と信長、二人は互いに力を認め、趣味を同じくし、蜜月を過ごしてきました。
しかし、信長は前久にとってあまりにも過激であり、革新的すぎました。
「関白や太政大臣で満足してくれていたらよかったのに──」
前久は何度もそう考えたはずです。
あろうことか、天皇の上に立とうとするなど、到底許せることではありませんでした。
前久は、信長と袂を分かつ決意を固めます。それは、いつだったのでしょう。
私は、前久が信長の武田征伐に同行したときではないかと考えています。
武田征伐へ同行した前久は信長の残虐性に震撼したか
天正10年(1582)3月、甲斐の武田勝頼を討つため、信長は5万の兵を率いて出陣。総兵力14万余りが攻め込み、甲斐平定に成功しました。
このとき、前久も公家陣参衆を率いて同行しています。
前久は当時太政大臣に就任しており、信長は前久を同行させることで、この戦いが私戦ではなく、朝廷の命による「征伐」だという名分を調えたかったのです。
かつての盟友である武田家に対して、前久は寛大な処分を求めていました。
また、武田家の菩提寺である恵林寺の住職であり、武田信玄の師である快川和尚を守りたかったに違いありません。
前久はそうしてくれるように、何らかの形で信長に働きかけたことでしょう。
ところが、結果は最悪でした。
信長は武田家を根絶やしにしたばかりか、快川和尚を楼門に上げて焼き殺したのです。
快川和尚は、正親町天皇から国師号を授与された高僧であり、その僧を焼き殺すことは天皇の権威を真っ向から否定したも同然です。あまりにも残虐な所業を見て、前久はついに袂を分かつ決意をしたのだろうと思います。
近衛家を軽んじたことも、信長殺害の理由になった⁉
武田征伐の後、信長は家康の案内で甲府から駿河へ下る富士遊覧の旅に出ています。前久は同行すべきかどうかを信長に尋ねました。
すると信長は前久をけんもほろろに追い払ったのです。
武田家や快川和尚への仕打ちに加え、この信長の冷淡さが、前久の心に宿ったものを燃え上がらせたのではないでしょうか。
もう一つ、前久が信長との縁を断ち切ろうと考えたであろう一件があります。当時関白を務める一条内基という公家がいました。前久とはライバルの関係にあります。
この一条内基に、信長は養女を娶らせているのです。
「こんなにも信長のために尽くしてきたのに、よりによって一条と縁組するとは」
前久にとっては、信長の裏切りであり、同時に自分が「見限られた」と感じたことでしょう。
信長にとっては、「太上天皇になる」ことに反対している前久への当てつけであり、「前久がだめなら一条で」という保険だったかもしれません。
前久にとっては、「もはやこれまで」でした。
そして光秀も計画に組み込み、信長を京におびき寄せる
木曽路を通って京に戻った前久は、各方面と連絡を取り、「信長謀殺計画」を練り始めました。
まずは足利義輝の近臣だった細川藤孝(幽斎)を身方に引き入れ、足利義昭を京都に呼び戻し、幕府を再興する計画を立てます。
同じく義輝の近臣だった明智光秀も、藤孝とともに前久側につきました。
二人は義昭を将軍にするために奔走した仲であり、また光秀の娘玉子(ガラシャ)は藤孝の嫡男忠興に嫁いでいます。
単なる幕府の旧臣同士というだけではない、強い絆で結ばれていたのです。
一方信長は、「武田征伐」の功績を盾にとって、朝廷に対して、太政大臣、関白、将軍のいずれかに任じるように強要していました。
その要望を朝廷が受け入れ、天正10年(1582)5月4日、安土城に勅使を遣わし、誠仁親王の書状を届けたのです。
信長が望めば、三職のうちいずれの職にもつける、という書状です。
誠仁親王は、信長謀殺計画を知っていたと考えられます。そして、書き添えられた一言「すべては、上洛されたときに」。これは、信長を洛中におびき寄せるための罠としか思えません。
なぜ信長はこんなにも無防備だったのかという謎
そして、同年5月29日、信長は100人ばかりの小姓衆を供に上洛、本能寺に宿をとりました。
翌日、近衛前久以下大半の公家が、上洛のお礼に信長のもとに伺候します。
信長は、なぜこんなにも無防備だったのか、という謎があります。
おそらく信長は、「日本はこんなにも安全な国になったのだ」とアピールしたかったのだと思います。
もはや全国で私戦が繰り広げられる戦国時代ではない、新しい時代になったのだ──そう宣言したかったのでしょう。
自分を裏切る者が畿内にいるとは、想像さえしていなかったようです。
信長には案外、そういううかつな面があります。恨み、憎しみ、ねたみ、鬱屈──自身が合理的な人間だからでしょうか、そうした人心の裏面に思いが及ばないのです。
信長は明智によって「誅された」と書かれた文書
明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのでしょうか。
光秀の中には、さまざまな感情が渦巻いていたはずです。一つだけはっきり言えるのは、これまで語られていたような「光秀単独犯」説はありえないということです。
いくつかの証拠が残されています。
静岡県富士宮市の日蓮宗西山本門寺に、信長の首が祀られています。寺伝によれば、「本能寺の変」の当日、信長の供をしていた原志摩守宗安が、日海上人(後の本因坊算砂)の指示によって、この寺に運んで供養したということです。
寺に残された過去帳には、〈天正10年6月 惣見院信長、為明智被誅〉とあります。
信長は明智のために誅されたという意味です。
「誅する」とは、上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉です。
当時、信長よりも地位が高い人物、それは天皇か将軍しかありません。つまりどちらかの命令を受けて光秀が討ったということになります。
そうでなければ、主君を討った光秀の行為を「誅する」と表現するはずがないのです。
本能寺の変は光秀の「単独」「突発的」犯行ではありえない
そして朝廷の計画には、将軍足利義昭も関わっていたという証拠が残っています。
本能寺の変直後の天正10年(1582)6月12日、光秀が紀伊国雑賀の土橋重治に出した書状の原文が、三重大学の藤田達生教授によって発見されたのです。
土橋重治は一貫して反信長派であり、本能寺の変が起こると、雑賀を反信長派で固め、高野山など近隣の寺院勢力にも決起を呼び掛けました。
重治は光秀に協力する書状を送り、その返信に次のような一文があるのです。
仰せの如く、いまだ申し通わず候ところに、
上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども
御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事、
(『本能寺の変』藤田達生)
この一文を見れば、本能寺の直後の重治の行動が義昭の命によるということは明らかです。
重治が義昭の指示によって行動していること、光秀もまた将軍の指示で上洛戦への協力を約束していることがわかります。
こうした史料が発見されたからには、クーデターが光秀の単独犯であり、しかも信長を恨んだための「突発的犯行」という解釈は、もはや成り立ちません。