信玄は「せめて北条と対決姿勢を取れ」と家康に要請
これは信玄との関係からすれば、明らかに契約違反であった。今度は家康が契約違反をしたのである。信玄はこれに抗議したに違いない。それだけでなく5月23日付けで、信長家臣に宛てて事情を連絡するとともに、信長の見解を問いただす書状を出した。
すでに信玄は、家康が今川氏真と和睦交渉を開始していることを把握した際に、和睦を工作していることは不審であり、そのことを信長はどう考えているのかと問いただしていた。ここではさらに、せめて家康に、氏真と北条氏康・氏政父子に敵対の態度をとるようはたらきかけることを要請している。信玄は家康のことを、信長の意見に従う人と認識していたので、信長に家康へ意見することを求めたのであった。
家康は信玄の抗議を無視してその宿敵・上杉謙信と結ぶ
しかしながら家康には、信玄との政治関係を改善する気はほとんどなかったようである。信玄との政治関係がこじれるようになっていた永禄12年(1569)2月18日に、家康は上杉輝虎の家老・河田長親に、前年の書状への返事を出している。
家康は同10年末頃に、家康と今川氏真との関係に関して輝虎に通信をはかり、同11年3月にそれへの返事をうけていたが、その後は放置していた。ところがここにきて、にわかに返事を出しているのである。これは信玄との関係悪化を見据えて、それと敵対関係にあった輝虎と交誼を結んでおこう、というものであったに違いない。
もっとも家康と信玄の関係は、表面的にはしばらく継続した。元亀元年(1570)正月の書状では、駿河で敵方に残っているのは花沢城(焼津市)だけになったことを報せたうえで、隣国の関係にあることをもとに入魂を求めている。同月に信玄が信長に出した書状では、家康が氏真・氏政と数度におよんで起請文を交換した事実を把握したことを報せたうえで、家康の行為を「大悪」と非難し、かつ信長が家康に援軍を派遣していることをなじっている(丸島前掲論文参照)。
そして家康と信玄の同盟関係は、同年四月を最後に確認されなくなっている。家康側近家臣で武田家への外交を担当した一人であった榊原康政(1547~1606)が、同じく武田家で徳川家への外交を担当していた土屋昌続に宛てた書状で、互いに同盟継続に尽力しあうことを申し合わせている(同前)。しかしこれをもって家康と信玄の通信は途絶えることとなる。かわりにみられたのが、同年8月における家康と上杉輝虎の同盟交渉の展開であった。