度重なる契約違反で家康・信玄の信頼関係はなくなる

しかも家康はこのとき、信玄が遠江領有を望んでいることを理由にかかげていた。家康としては、すでに遠江の大半の経略を遂げていた実績をもとに、遠江は徳川家の領国化したという認識にあり、そのため武田軍の行動を、遠江経略をはかるものとして非難したのであろう。

信玄はこの家康の抗議をうけて、謝罪した。これをうけて家康と信玄はあらためて起請文を交換することになり、2月16日には家康の起請文が信玄に届けられ、これをうけて信玄から家康への起請文が出された(『戦国遺文武田氏編』1367号)。

しかしその直後、両者のあいだで新たな外交問題が生じた。駿府近辺の安倍山で蜂起していた今川方と、武田家は和睦をむすんで人質交換したということがあった。これを知った酒井忠次は、武田家家老の山県昌景に抗議し、それについて弁明する書状が、同月23日に酒井に宛てて出されている(同前1369号)。

そこで酒井は、その行為を「最前の首尾相違」(以前の取り決めへの違反)として抗議したことが記されている。その内容は、互いに今川方と勝手に和睦しない、というものと考えられる(丸島前掲論文)。家康側にとっては、度重なる武田側の契約違反行為と認識されたのである。

一勇斎国芳『武田上杉川中嶋大合戦の図』
写真=国立国会図書館デジタルコレクション
一勇斎国芳『武田上杉川中嶋大合戦の図』

家康は今川氏真を引き取った北条氏と和睦し信玄は激怒

ところが今度は家康が契約違反をおかす。今川氏真およびそれを支援する北条氏政と、和睦交渉をすすめるのである。「松平記」は3月8日に氏真に和睦を申し入れたことを記している。ただしこのことについて、いまだ当時の史料では確認できていない。

ともあれ和睦交渉は、基本的には今川家支援のため駿河に進軍してきていた北条氏政とのあいだですすめられ、5月9日には成立している。江戸時代成立史料にはそれ以前の日付を伝えているものもあるが、当時の史料で確認できるのは、その9日である。

そして15日に懸河城は開城し、今川氏真は北条家に引き取られ、北条方の武田方への最前線拠点になっていた駿河東部の蒲原城(静岡市)に移った。その後は沼津、次いで大平城(沼津市)へと移っている。氏真の懸河城出城の際は、酒井忠次が北条方に人質を出し、家康と氏政のあいだで起請文が交換されている。

しかも家康は、氏真と氏政に「無二入魂」を誓約したのであった。これは家康が氏真・氏政と停戦和睦を成立させたことを意味する。同盟関係まではいかないが、互いに「入魂」を誓約しあっているのだから、少なくとも停戦が成立したことは確実である。