※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
信玄と手を組んで今川領を攻略し家康は一人前の大名に
家康は、永禄11年(1568年)12月の侵攻から、同12年6月までのほぼ半年ほどで、遠江一国の経略を遂げた。これにより家康は、遠江・三河2ケ国を領国とする戦国大名に成長した。そしてこの遠江侵攻は、武田信玄と協同してのものであった。信玄は12月6日に駿河に進軍し、駿河経略をすすめた。
今川氏真が駿府から懸河城に没落したのも、この武田軍の侵攻をうけてのことであった。すなわち家康と信玄は、今川家領国に侵攻することを取り決め、ほぼ同時期に軍事行動を展開したものになる。そしてそれは、織田信長と信玄の取り決めによるものであった。信長は実際には遠江に侵攻できないので、家康がそれを担当した、というものであった。
侵攻に先立って、家康と信玄のあいだで、種々の取り決めを申し合わせた起請文が交換されたことであろう。そしてその「契約の証拠」として、家康から信玄に、家老筆頭の酒井忠次の娘が人質に出された。こうした段取りを経て、家康の遠江侵攻はおこなわれたのであった。
信玄は遠江を、家康が駿河を経略するという暗黙の了解
ところが侵攻開始から1カ月も経たないうちに、家康と信玄のあいだに不協和音が生じるのである。ところで両者の今川家領国への侵攻に関して、あらかじめ「川切り」による領土分割が取り決められていた、とする見解がある。これは江戸時代成立の史料にみえていることから、これまでそのことは信じられてきた。
しかし当時の史料をもとにした検討により、そうした取り決めがされていた形跡はなかったことが明らかになっている。そこでは家康も信玄も、ともに「手柄次第」(経略した者がその後の統治をおこなう)とされていて、信玄が遠江を経略することも、逆に家康が駿河を経略することも、互いに了解し合っていたことがわかった(丸島和洋「武田信玄の駿河侵攻と対織田・徳川氏外交」)。
にもかかわらず、侵攻開始から1カ月も経っていない、永禄12年(1569)正月初めには、家康は信玄の軍事行動に抗議している。武田家家老の秋山虎繁を主将とする武田軍が遠江に進軍してきていて、家康はその行動に抗議したのである。
しかしそれは、これまでいわれてきたような、遠江は家康の担当分であり、それを侵犯したため、といったことではなかった。経略は互いに「手柄次第」とされていたからである。家康が抗議したのは、武田軍の進軍が、すでに家康が経略した地域に対しておこなわれたためであった。